孤独と憎しみからの解放と家族の回復
親子関係でお悩みの方
オウムから救われ三億円の損害から勝利
借金問題でお悩みの方
私はあなたのわざを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42章5節)
家業の経営の行き詰まりから父親が3億円の損害。そして24歳のときに兄の影響でオウム真理教に入信。しかし、真の救い主なるイエスキリストを知り、主を求め、祈り求めたときに、生ける神が人生に働き始めた。現在北海道の地でコンビニエンスストアを経営しておられる菊池弘泰さんに、オウムからの回心や、40日40夜の断食、さらに現在の経済の祝福について聞いてみた。
主が与えられた試練
私の実家は着物屋を営んでおり、そこそこの個人商店で、生活は裕福な方で、私自身子供の頃から、あまり不自由を感じないで育ちました。
しかし時代の流れでしょうか。世の中は着物から洋服を求めるようになり、着物を売り歩くのが非常に厳しくなってきました。
黙っていても売れる時代は終わり、いつしか私の知らないところで、会社はかなりの負債を抱え、もうギリギリのところまで来ていました。
父は会社の赤字を気にして、とうとう、ゴムの先物取引に手を出してしまいました。
最初は良かったのですが、それも束の間、どんどん損をしていき、賭けている金額が大きいので、下がるときには何千万も下がりました。
一日でそれだけの金額が動くので、それを取り返そうとまた賭けて損をして、やめると言いながらも、やめられない状況が何ヶ月も続きました。
三億円の損害
ついに財産のほとんどがなくなり、その損害といえば、私にとって天文学的な数字になってしまいました。
コツコツと売ってくる商品の額も気休めで、塵のように感じられました。
今の私たち家族の力では取り返せる金額ではなくなってしまいましたが、父はそれでも株の取引をやめなかったのです。
私にはどうすることもできませんでした。しかし黙っていると気がおかしくなりそうで、夜も眠れませんでした。
この頃から私は、本当に心から主を求め、イエス様に祈り始めたのです。
石狩川のほとりでの祈り
私は毎晩、寝静まった妻を起こさぬように、そっと床を抜け出し、夜中の2時ごろに近くの石狩川へ行き、真っ暗の中、主に祈り叫んでいました。
時間はあっという間に過ぎ去り、朝7時ごろ家に戻るのです。1時間ほど仮眠を取り、起きるのですが、また不安が襲ってくるのです。そして何もしないで黙って家にいることができないので、また祈りに行くのです。
完全に恐怖の奴隷となっていました。毎日毎日、雨が降っても欠かさず祈りに出かけました。
「主よ。あなたはおられるのですか。全能者であられるのなら、なぜ今すぐこの問題を解決してくださらないのですか。どうして毎日毎日あなたは黙っておられるのですか。あなたは本当におられるのですか。」
石狩川のほとりで主に叫びました。
主の答え
ある日の朝、いつものように祈っていました。
そのとき、突然私の霊的な何かが開かれたのです。
主がここにおられるということがはっきりわかったのです。
その暖かさに触れているかのように、目には見えませんが、生きた方が確かにおられるのがわかりました。
私はびっくりして、地にひれ伏し、その臨在に頭を持ち上げることができませんでした。目から涙が溢れ出し、私は大泣きしてしまいました。
主はそのとき、はっきりと言われ、その声を私は聞きました。
「私はあなたと共にいる。あなたは私の栄光を見る。」
そのとき、不思議に私はすべてを理解することができました。
そして、ヨブが主に語った、「私はあなたのわざを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42章5節)」この御言葉が脳裏に浮かんできました。
すべてが主の摂理、主のご計画であったことを悟りました。
新しい仕事の導き
その後、不思議なことに、私達とは畑違いの仕事が次々と舞い込んできました。
その中に、コンビニエンスストアの経営の話があり、妻の小遣い稼ぎにでもと考え、始めることになりました。
場所は、こんな所かと思うような活気のない所でしたが、その店は、どんどん利益を上げ、本部の人達ですら、口を揃えて、「宝くじを引いたね」と、自慢するほどの店になりました。
あなたは私の栄光を見、さらに私を知る、と主が語られたとおりでした。
オウム真理教からの解放
兄がコンビニエンスストアのオーナーになりましたが、あまりの忙しさに、兄は教団(オウム真理教)をやめました。兄と私は双子の兄弟で、幼い頃から超能力に興味を抱いていました。
社会人になってから、オウム真理教に入信し、旭川から札幌の道場まで、毎日修業のために通っていました。
オウムでの修行は深夜に及ぶもので、3分間息を止めることを課せられました。息を止め、吸うを繰り返し、4時間も経つとくたくたに疲れます。
最後の2時間はトランス状態に入り、その状況の中で瞑想するよう指導され、イメージを与えられます。
その修行を積んでいる内に、私は心のバランスを崩し、精神に異常をきたすようになってしまいました。
自殺の思いがあり、幻聴幻覚がおとずれ、得体の知れない恐怖が私を覆っていました。
私が24歳のとき、神は私の元に牧師を遣わしてくださいました。私を心配した両親がある教会の牧師に連絡をしたのです。
牧師はさかんに、イエスキリストの十字架について話していました。
私は、牧師の勧めで聖書を読むことにしました。
預言書は何のことかさっぱり分からず、旧約を読んでいる内は何も感じませんでした。
律法を守り、良いことをすれば神のようになれると思っていました。
旧約聖書は仏教と同じと思っていたのです。
しかし、新約聖書に入り、イエスキリストが出てくると、大きなショックを受けました。
今までの自分には救いがなかったことに気が付いたのです。
仏教にはどこを探しても救いはありません。
イエスキリストの贖い、身代わりの十字架に気が付いたときに、私は救いを受け入れました。
そうして、牧師から按手を受け、イエスキリストの御名によって悪しき霊を追い出してもらったら、何と、1年は治らないと言われた精神の病が、わずか3日で完治したのです。
イエスキリストにしか救いがないという聖書の真理は、私が改宗する決定的な要因となったのです。
オウム真理教では、皆、良いことをすればレベルが上がると考えており、最終的には、グルである麻原に服従すると、グルが引き上げてくれると信じています。
しかし、何をもって救うのかといった場合、イエスキリストの救いによるより、他に救いはないのです。
そのことの確信が与えられたときにオウムから改宗いたしました。
私はプルシャというオウムのお守りを焼いて粉々にし、イエスキリストの御名によって縛りました。
四十日四十夜の断食
教団を離れ、新しい仕事により、経済的にもどんどん祝福されました。
1年も経たない内に2店舗目がスタートしました。(現在そこでは私達夫婦がオーナーとして経営しています)
さらにもう1店舗あればいいなと思い、本部の人に相談しました。
答えは、「とんでもない。オープンしてから1年足らずの店、体制も整っていないのに、誰がやるのですか」と、頭からはねのけられました。
私は、四十日四十夜、断食して祈りました。四十日四十夜断食しても、目立って変わることは何も起こりませんでした。
しかし、主は私の願いを聞いてくださいました。
何と本部の別のルートの担当者から、それも向こうからお願いしてきたのです。
それだけではありません。こういう店舗を私に与えてくださいと祈ったことが、後々そのとおりになっていくではありませんか。
誰を店長にするか、私も気にしていて、この人こそその人だと思われた方は、知人も含めてすべて主のふるいにかけられ、消えていきました。
誰もする人がいないと思っていた矢先、札幌のほうから、それも経験豊富な若い社員を、本部の方が引っこ抜いてきたではありませんか。こうして、3店舗目を出すことになりました。
その後、自分では何もしていないのに、事がどんどん進んで行き、怖いぐらいでした。
絶体絶命の窮地に陥っている人がいるならどうぞ喜んでください。そのときこそチャンスだからです。
私はクリスチャンでしたが、父の株の問題がなければ、祈りは形だけだっただろうと思います。
しかし、他の人は助けてくれない。主だけに頼るしかない絶体絶命のときに、真剣に祈ることができたのです。
主にだけ頼るとき、主は近づいてくださいます。
あくまで頼み続けるなら、主は必ず問題を解決してくださり、祝福をしてくださいます。
今振り返ってみて、株により資産はゼロになりましたが、今の仕事が与えられてそれ以上に祝福されていることを思い、主のなさることは不思議だと感じています。
頼み続けるなら、期待するものが主の方法によって与えられます。そして完璧なものが与えられるのです。
石狩川のほとりで主に叫んだ、主を求めに行った、そのような状況が与えられたことは、本当に感謝すべきことだと思っています。
菊池弘泰さん
「み声新聞1999年2月21日号(第1号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)
感謝する中で、私の中の恐れが完全になくなっているのに気がつきました。
家庭内不和でお悩みの方
主のみ名を讃美します。ここに証を書かせて頂くことが出来き、感謝します。
私は、18 才の時、学校から紹介された教会で洗礼に授かりましたが、すぐ教会を離れ、好き勝手に罪まみれで生きていました。アメリカに来て主人と共にただ食べる為だけに働き、言いたい放題、やりたい放題の家族でした。そんな中、ある事をきっかけに不眠症になり、これからの将来の不安、脅迫観念、困難等で眠れなくなりました。40日目、心の奥で、み言葉を感じました。マタイの福音書11:28 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所へ来なさい。私があなたを休ませて上げよう。」そのみ言葉で、すっかり元気になり、友達の行っていた Calvary Chapel Costa Mesa に導かれました。40 こと
ことです。Pastor Chuch の毎週のメッセージは、深く、簡潔に語られます。この教会 の中心に聖霊様がおられ、み言葉によって、又いろんな人々を通して今、現在も働いて 下さることを体験しました。神様の恵みです。恵みは私たちのまわりに満ち満ちています。
ハレルヤ !でも、喜んでいたのは、2、3年それからは、次々と起こる困難にすっかり打ちのめされていました。ある人から「あなたは、思い煩いの毒に犯されている。Christian の喜びがない。これからどんどん広がって行く。それは、罪です」と言われ、なんで私ばかりですか?
と主に文句を言っていました。その後も主人の病気、息子の離婚で、特にこの4年間は、
思い煩いの毒はどんどん広がっていました。
去年の11 月23日、秋元先生の聖会に導かれて、祈っていただく事ができました。
主人の健康、息子の離婚により起こる孫の問題、それを心配し続け、
もっと悪いことが起こるのではないかとの不安。先生は、「感謝しなさい。感謝しなさい。
感謝し尽くしなさい。」と言って下さり、それからは、毎日感謝し続けていました。
1ヶ月位して、私の中の恐れが完全になくなっているのに気がつきました。怖くないのです。
朝起きても、ぜんぜん怖くなく、主人と一緒に毎朝歩く散歩が楽しく、み言葉に
基づいたCalvary cha! pel $ NPraise Song を、楽しく歌うようになりました。
不思議です。感謝です。又、私の周りの状況が変わってきたのが解ります。長男と次男が、すごく穏やかに私に話すようになりました。家族の救霊が私と主人の悲願であり、信仰が家族に受け継がれる事を毎日祈っていますが、神様の事を話す機会が増えています。
感謝です。牧師を通して語られる神様のみ心は、ネヘミヤの様に「私の神の恵みの御手が私の上にもあったので。」と実感します。牧師のメッセージは、インターネットで毎週楽しみにしています。信仰のエッセンスを解りやすく、楽しく、語られており、わくわくしながら見ています。主が、喜んでいて下さっているのがわかります。喜びがありますから。
ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!
聖会で奉仕された牧師、聖会に連れて行って下さった A さん、ご主人、そして牧師に仕え、教会に仕え、病にある人に仕え、神様を第一として、本当に喜んでご奉仕されるすばらしいA さんのお母様に感謝し、その方々を通して働いて下さる神様は、なんとすばらしい神様でしょう。
私は、あなたに完全に降参しました。 ハレルヤ!
God Bless you richly all the time.
M.T.
出産をきっかけに -神様との出会い 教会で完全な神様の守り
離婚でお悩みの方
大晦日の夜に出産を無事終えて、次の日の早朝、授乳のために起きてまだ暗い外を見ると、病院の大きな庭は一面の雪で真っ白に覆われていました。昨日はあんなに晴れていたのに、夕べ気がつかないうちに雪が降ったのだなと思いながら、まるで別世界のような景色に見とれていました。その直後、洗面所へ行った帰りに、病院の廊下で思わぬ人に出会いました。
その人は同じ病院の妊婦教室で何度か一緒になった方でした。私より3日前に入院されて、すでに息子さんを出産されていました。とても誠実そうな方で、何度も私に話しかけてくださるのですが、私はなぜかその人と話がしたくなくて、いつも失礼な態度を取り避けていました。でもこのときは違いました。彼女と会ったのがうれしくて思わず駆け寄っていました。彼女は私の豹変振りに驚いて、でも顔には出さす、どうしたのかと聞いてくれました。
娘の父親とは出産の2日前に別れていました。子供が生まれたら結婚する予定だった相手が家を出て行ったからです。突然一人きりで出産することとなり、さすがに気が弱くなっていたのだと思います。私は自分の身の上を病院で会ったよくも知らない女性に話していました。すると彼女は私に言いました。「それは、私の主人が専門だから」
専門ってなんだろうと不思議に思っていますと、その日の午後、さっそくその方のご主人ともう一人の体の大きな男性が、彼女のところに来たついでに私のところにも挨拶に来てくださいました。話すと彼女のご主人はキリスト教会の牧師だということがわかりました。そしてご主人が「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死なれました。自分の罪を悔い改めて、この方を救い主として信じませんか?」と言われました。
私は何を言っているのかよくわかりませんでした。また極度の男性不信になっていて、人の言うことなど信用できないと思っていたのに、なぜかこの人の言っていることは真理に違いないと感じました。それでもクリスチャンになることは、とても大変なことに思えました。いろいろなものを捨てなければならないような気がしたのです。でもその時点の自分にとって財産といえるものは前日生まれた子供だけ、順調だった仕事も辞め、出産を反対されて家族からも見捨てられていた自分にイエス・キリストを信じて失うものは何もないと、思い切ってイエスさまを信じました。また牧師が導いてくださった祈りの中で、本当に自分は罪人だということは深くわかりましたので、悔い改めに躊躇はありませんでした。
7日たって病院を退院する日になり、私は子供を抱え、迎えの車を待っていました。しかし約束の時間になっても車は姿を現わしません。私はしかたがなく、病院の廊下を行ったり、来たりしていました。そのとき廊下の壁に小さな箱がかかっているのを見つけました。それは難病や障害を持って生まれた子供たちを支援するための募金箱でした。それを見ているうちになんだかその箱に1,000円を入れなくてはいけないような気がしてきたのです。
娘は黄疸(両親の血液不適合により発症)をともなって生まれたため、出産後すぐの3日間、小児科に入院していました。退院するときは子供にまだ保険資格がなくて全額支払いとなったため、そのときの私の全財産は5,000円だったのです。そのため私にとっての1,000円は大金であり、募金はなかなか決断のつかないことでした。しかし私は喜びにあふれていたので、最終的にはその募金箱に1,000円札を入れたのです。
このような境遇で喜びにあふれているのはおかしなことですが、本当に心から感謝の思いでいっぱいでした。出産前、私はつわりがひどかったため仕事を辞めざるをえず、当時学生だった相手も家を出て、一緒に大学の近くに引越しをしました。相手は学生で経済的には厳しく、またつわりのせいでほとんど満足に食事ができない状態でした。不安定な関係ですからお互いに思いやることもできず、お腹にいる子供には大変な思いをさせたと思います。子供が生まれてくる直前まで、精神的にも肉体的にも良くない状況が続いたので、その影響でもしかしたらどこかに障害をもって生まれてくるかもしれない、でも生まれてきたら絶対大切に育てようと決心していました。
しかし生まれてきた子供は信じられないくらい健康な、かなり離れた洗面所にまで大きな泣き声が聞こえてきて、同じ病室の産婦さんから「ほらあなたの赤ちゃんが呼んでいるわよ」と言われるくらい元気な赤ん坊だったのです。私はそれを見て、本当に奇跡だと思いました。なにか目に見えない力が働いてこの子供を守ってくださったとしか思えないと感じました。どなただかわからないけれど私の子供を守ってくださった方がおられる、そのことに感謝の思いでいっぱいだったので、私も自分ができることをしたいという思いになったのです。
神様と人々の愛に支えられて
結局3時間遅れた迎えの車に乗って、アパートに帰ると近所の方々がお祝いにかけつけてくれました。その中にイエスさまを教えてくださった牧師も来ておられました。そして帰り際に電気敷き毛布と現金の入った封筒をお祝いだと言って置いていかれました。封筒の中身を見てびっくりしてしまいました。なんとその中には140,000円が入っていたのです。私はあわてて牧師の奥さんである友人に電話をかけて、理由を尋ねました。すると彼女は「それは神さまがそうしなさいと言われたことだから、安心して使ってください」と答えてくれました。しかしそれでも私は信用できず、封筒のお金には手をつけることができませんでした。
出産して1ヵ月後、教会から迎えの車が来てくれました。ほとんど同時期に出産した牧師の奥さんと一緒に赤ん坊を抱いて、教会に初めて行くことになりました。そして教会で初めてメッセージというものを聞きました。
メッセージの中で、牧師は「Aさんが退院をする朝、神さまが給料の1か月分をAさんに献金するように言われた。しかし自分のところにも子供が生まれたばかりで、給料を全額献金してしまったら、自分たちの生活はどうなると思って心配になった。それで妻に相談して、妻から断ってもらおうと考えたら、妻は『神さまが言っていることに従ったほうがいい』と答えたので、しかたがなく給料の一部で電気敷き毛布を購入し、それと一緒に残りのお金を全額献金してきた。するとすぐに捧げた何倍もの祝福が与えられて自分たちの生活も守られた。神さまは生きて働いておられる」ということを語られました。
それを聞いて、私は本当に神が生きて働いておられることをはっきりと知りました。この神さまが私の子供をお腹の中で守り、それだけでなく私たちの生活さえも牧師の献金をとおして守もろうとされたことがわかりました。神さまが私の家族だけを祝福されて、牧師のご家族を守ってくださらなかったらきっと神を信じることはできなかったと思います。しかし神さまは、神さまに従って給料全額を捧げてくださった牧師とそのご家族を祝福し、ご自身の栄光を現わされました。
また私にもご自身に従うかと試されたのだと思いました。私が主の促しに従って1,000円を捧げたときに、その何倍もの祝福を与えてくださいました。また牧師が後にメッセージで語られましたが、神は「家族でパトモスに遣わす」「わたしはあなたにパトモス派遣のために、十分の一を先に捧げさせた」と言われて、最終的に牧師が私に捧げてくださった金額の十倍以上の祝福を牧師に与えられました。そして牧師とご家族は、その年の夏のパトモス派遣に家族全員で参加されました。
何年も経って牧師の奥さんと話をしているときに「あなたがたのおかげでクリスチャンになれました」とお礼を言うと、それはちがうと彼女は答えました。実は息子さんの本来の出産予定日は、1ヵ月後だったそうです。それが急に出産ということになったのは、彼が、私たちが救われるための道備えをしたからだということでした。バプテスマのヨハネの名をもった息子さんは、お腹の中から神に従っていました。また本当に急な出産だったため、奥さんの体は準備ができておらず、傷が残ってしまってそれから何年も辛い病院通いをすることになったのですが、彼女は一度も私を責めませんでした。
出産前に神さまは何度もあの人に声をかけるようにと、奥さんに言われたそうです。しかし私が避けていたので、私を怖いと思っていたそうでした。それでもめげずに声をかけ続けてくださっていたので、病院で再会したとき、私は迷わず彼女に近づくことができました。
試練を乗り越えて-神に従う祝福
娘の父親が彼女の父親であることは事実なので、本人が娘に会いたいと言ってきたら、会わすつもりでしたが、生まれてから一度も会いにきたことはありません。しかし天の父である神さまは、いつも娘のそばにいてくださいます。
体は人一倍丈夫に生まれてきたのですが、発達障害という病気をもっているらしいことが高校生になってからわかりました。まだ病院に行っていないので、正確なことはわからないのですが、小さい頃からのいくつかのできごとを検証してみますと、ADHDという病気の症例にぴったり当てはまります。
しかし娘には言いづらく、神さまにどうしたらよいのかと祈りました。すると祈った直後、娘のほうから突然、自分は病気なのかなと言ってきました。それで祈って見つけた精神科の医者で娘と同じ病気を持った方が書かれたHPを見るように言うことができました。娘もさっそく見て、自分と同じだと驚いていました。
私は娘が病気だとは考えてもおらず、少し変わった子供なのだと思っていました。自分の興味のあることはものすごい集中力で行ないますが、興味のないことは聞いても忘れてしまいます。実際、家の鍵を何度もかけ忘れたり、落としたりするので、このままでは自分の命まで落としてきてしまうよと何度か注意をしてきました。
小さい頃はうっかり者ですんでいましたが、だんだん大きくなってくると、実害が出てきます。私も余裕がなくなって、ひどい言葉で娘を叱責することが多くなりました。娘が傷ついていることがわかっても、自分も傷ついているときは思いやることができず、ますます彼女を追い詰めていきました。
しかし私も精神科の方が書かれたHPを見て、娘が病気の可能性があるということを理解できました。だから娘が悪いわけではないということがやっとわかって「あなたのせいではない」と娘に言うことができました。また私たちにはより頼むことができる神さまがおられます。後で聞いたら、娘も自分の状態に耐え切れなくなり、神さまになんとかしてくださいと祈っていたということでした。
娘は自分の状況を理解し、神さまにいやしを求めて祈りました。この病気の人は他の人の気持ちを把握することが難しく、他の人と一緒に同じ作業をすることに苦手意識をもっています。しかし今では、娘は教会でチームで奉仕をし、バイト先でもよき仲間に恵まれて、楽しく仕事をしています。またあれほど嫌がっていた勉強も、主の憐れみによって進学できたことで、自主的に勉強を行なうことができるようになりました。
娘は一度病院に行って、きちんと検査を受けると言っています。きっとかつては病気だったのが、今は神さまによっていやされていることが判明するのではないかと楽しみにしています。
私たち親子は教会で完全な神さまの守りを受けてここまでやってくることができました。確かに教会にはイエスさまのみ力と祝福が満ちあふれています。
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」
(エペソ1・22-23)
教会に行き続ける中で解放されいやされました。
うつ病で苦しんでいる方, 自殺を考えている方
私は、20数年前に救われましたが、いろんな事があって長い間教会から離れていました。でも事は親のがんがきっかけで、6年前に教会につながることになりました。そのころの私は、うつの病状が重く薬がなくては、夜も眠る事が出来ませんでした。私たち姉妹は、幼い頃から親の愛情を受ける事がなく、毎日が争いの絶えない家庭で育ちました。
長い年月の間に虐待を受け自分でも気づかない内にうつ病になってしまいました。精神科に通院しましたがいやされず、頭の中では、どうすれば、楽に死ねるかと言う事ばかりを考えていました。一人で暮らしていたので、いらいらがつのり、死ぬ場所を求めて夜中中さ迷い歩きました。しかし結局は死ぬ場所が見つからずバス停のベンチで夜を明かしていました。生きているのが辛く、睡眠薬を飲まず致死量をためて沢山の薬を飲みましたが不思議に死ぬ事が出来ませんでした。左手の甲や腕を刺したり切りつけると言う異常な行動をとり続けて皆に心配をかけていました。でも、義姉と教会に行くようになりました。牧師ご夫妻はいつも私の話を聞いてくださり、祈ってくださいました。又姉が献身していた事もあり日曜礼拝や夜のカリスマ礼拝にも必ず出席をしていました。カリスマ礼拝においては、牧師夫人にいやしの祈りをしていただきましたが、神さまは預言を通して又賛美を通して、私はあなたをいやすと何度も何度もかたって下さいました。私は教会に行き続ける中で少しづつ孤独感やイライラがうすれていきました。気がつくと薬を飲まなくても眠れるようになっていました。今では自分を傷つける事もありません。神さまは、私をゆっくりとしかし確実に時間をかけていやしてくださいました。
うつで苦しんでいる方に、神さまを知って頂きたいとと思っています。神さまは必ずいやしてくださいます。
渡辺由美子
神のわざがこの人に現れるためです
不登校でお悩みの方
—息子の不登校3年半を通して神様が教えてくださったこと
「学校に行きたくない」—ここから私たち親子の長い戦いが始まりました。何とか学校へ行かせようと、時にはつかみ合いになることも…。ある日、自分を責める思いの中ですべてをさらけ出して祈ったとき、神様は約束のみ言葉を与えてくださいました。
「ただいま!」と中学2年生になった息子が学校から帰って来ました。カバンを玄関に放り出し、制服も脱ぎ捨てている息子に、「カバンは、部屋に。制服はハンガーにかけなさーい!」と、声を張り上げているわたしです。こんな日常ありふれた光景ですが、私にとっては大きな喜びでもあります。それは、息子が学校に行けず、苦しんだ3年半があったからです。
今日は、息子の不登校を通して神様が教えてくださった多くのことを、皆さんにお分かちさせていただきます。
「学校に行きたくない」
2003年4月、私たち家族は、多くの確認のもと、主の導きを確信し、生まれ育った北海道から東京へと引っ越してきました。上京と同時に、恵みによって、主人は牧師として立たされ、まさに主に仕え、教会に仕えるという熱い思いで、東京での生活はスタートしました。
子供たちも、下の息子は、近くのキリスト教幼稚園に、上の息子は、小学3年生でしたが、歩いてほんの2分程のところに小学校があり、そこに通うことになりました。私は、子供たちのいない間、神様のことに専念できると、わくわくしていました。(それまで、主人の母と同居していたので、単純に自分だけの時間があることがうれしかったのかもしれません。)
しかし、そんな希望に満ちた、そして悩みのない生活は、10日も続きませんでした。
学校が始まって1週間くらいたったある朝、息子を起こすと、「学校に行きたくない。」と言い出しました。「何かいやなことでもあるの?」 と聞いても、ただ、「行きたくない。」を繰り返すばかりです。新しい学校で緊張するとは言っていましたが、クラスメイトが朝迎えに来てくれ、前の日までは、楽しそうに学校に行っていたのです。
それでもその日は、転校したばかりで環境も変わり、たまには行きたくないときもあるだろうと、無理には行かせず、とにかく感謝していました。
しかし、翌日も同じでした。ここから、私たち親子の長い戦いが始まったのです。
しかし、この期間は、私にとってなくてはならない時となりました。それは、教会で語られている祈り聞き従うこと、感謝すること、教会につながることの、実施訓練となったからです。
第1段階—受け入れられない
この訓練の時を、私は、3段階に分けてみました。
まず第1段階は、受け入れられないという段階です。子供は学校に行くのが当たり前、と思っていた私は、学校に行かないことと学校に行かない息子とを受け入れることができませんでした。初めは、引きずってでも行かせるという思いで、息子に接していました。朝、息子が起きれば、とにかく学校に行かせようと必死でした。時には諭(さと)し説得し、時には罵倒(ばとう)し、時にはつかみ合いになることもありました。そんな中で、遅れてでも学校に行けると、ほっとする反面、気力も体力も尽きてしまい、ぐったりしてしまうという毎日でした。そんなにまでして息子を学校に行かせようとするのは息子の事を思ってではなく、自分にとってそのほうが都合がいいからなのではと思うと、自分がいやでたまらなくなりました。
また、学校に行けなくなった原因がわからなかったので(学校に行かなくても友達は遊びに来ていましたし、先生もよい方でした。)東京に出てきたことが、間違いだったのではないだろうか? 御心ではなかったのではないだろうか? そのために、子供を犠牲にしてしまったのではないかと、自分を責める思いになりました。
主人に相談すると、いつも「感謝しよう。とにかく感謝だ。」というばかりでした。確かにその頃、2倍の感謝、10倍の感謝と感謝の訓練も本格的になってきている時でした。
感謝だけで解決するとは思われないというのが、その時の私の正直な気持ちでしたが、疑いつつも日々感謝していきました。朝、息子とも感謝し祈り、聖書を読みました。
み言葉の約束
ある日、どうしても自分たちのせいで息子はこうなったという思いが強くなり、神様に自分の思いをさらけ出して祈りました。すると、はっきりと次のみ言葉が、与えられました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」 (ヨハネの福音書9章2、3節)
このみ言葉を通して、今許されている困難は、息子のせいでも私たち親のせいでもなく、神様の栄光が現れるためなんだということがはっきりとわかりました。だから、神様に従っているならばすべてが益となり、このことに神様の大きな計画があるんだと心から信じることができました。そして、東京に来るときに与えられていた多くの言葉を握り直し、確信に立ち返ることができました。
第2段階—自分の力で頑張る
このように、何とか息子の不登校を受け入れられるようになった私は、次の段階に入りました。それは、自分の力で「頑張る」段階でした。
毎日、感謝しつつ、「主よ、今日はどのようにして息子と過ごすべきでしょうか?」と祈りました。無理に学校に行かせないかわりに、私が何とかしてあげなくてはという思いが強くなっていました。学校に行っていないからといって学力が落ちないように勉強を見たり、外へ連れ出そうと公園や博物館に誘ったりと、結構忙しくしていました。何かしなければ、私自身の気がすまなかったからです。この、頑張る段階のピークが、5年生の秋に行われた移動教室でした。これは、2泊3日の泊りがけで軽井沢に行くというものでした。こんな大イベントに参加できれば、その後は自然に学校に行けるのではという期待でいっぱいでした。担任の先生ともいろいろと相談しましたし、本人も行きたい気持ちは強かったので、参加できるように細かく共に祈りました。
その結果、なんとこの行事に参加することができたのです。帰ってきたときの息子は、とてもうれしそうでした。学校に復帰する絶好のチャンスが来たと思っていました。
しかし、その期待は見事に裏切られました。その後、ぱったりと学校に行かなくなったのです。それまでは、自分の好きな図工とかクラブなど、数週間に1度くらいは行けていましたし、音楽鑑賞会や運動会など行事にも参加していたのですが、それさえも行かなくなりました。
第3段階—主にゆだねる
私自身、ここまでやって行けないのならもうお手上げという感じで、何もやる気が出なくなってしまいました。私には、何もできることはないとあきらめたときに、初めて、もう主にゆだねるしかないということがわかったのです。これが、3段階目です。
主にゆだね切る時の平安を知るまでに、なんと遠回りをしたことだろうと思いますが、それまでの一つ一つが訓練であり、通らなくてはならなかった道だと思っています。
さて、主にゆだねてからも息子はすぐに、学校に行けるようになったわけではありません。かえって学校にはほとんど行かなくなりました。しかし、そのような中、家族でイスラエルに行くということが導かれました。
はじめは、怖いから参加したくないと言っていた息子も、「安心して行きなさい」というみ言葉によって、押し出されました。この時は子供たちの参加も多く、同じ教会の友達もいて、久しぶりに息子が心から楽しんで人と接する姿を見ることができました。
神様は、神様の方法で、彼の心と霊を少しずつ解放し、学校へと近づけてくださっていました。学校には行きませんでしたが、本人は、中学校で変わりたいと思っているようでした。私たちは、御心の中学に行けるようにと祈っていました。小学校はもう行けなくても仕方がないと、ほとんどあきらめていました。
私自身も、教会と部門の仕事で忙しくなってきていました。以前なら、息子を置いて出かけていいのだろうかという思いが来ていましたが、主にゆだねてからは変わりました。私は私のやるべきことをして、息子のことは、主にお任せすることにしました。
そして、6年生も夏休みが過ぎ、前の年あんなに頑張った秋の移動教室の時期も過ぎ、息子は、教会と習っているギター教室そして親子で通っていた相談室以外は、ほとんど外に出ないという日々が続きました。
ゆだねているとはいえ、何もせずにボーっとしているように見える息子を目のあたりにすると、ついつい言わなくていいことを言っては、彼を傷つけてしまったり、怒らせてしまうこともしばしばありました。息子を受け入れたくても受け入れられず、息子も、私に反発して来ました。
しかし、神様は、動き出していました。そのころ、ニュースで毎日のように、子どもの自殺が事件として取り上げられていました。原因はさまざまでしたが、簡単に命を絶ってしまうことにショックを覚えました。同時に、もし息子もそうなったらどうしようという思いに駆られました。そう思ったときに、今まで、学校に行く、行かないで一喜一憂していた事を、心から悔い改めました。わたしは息子の存在自体がいとおしいんだ。とにかく、生きていてほしいんだ。それでいいじゃないか。とはっきり思いました。「神様はどんなときも共にいてあなたを愛してくださっているから、大丈夫だよ。」と息子にわかってもらいたいと思いました。その時に、与えられた曲が、『やすらぎの歌ゴスペル第7集』(編集部注:雲の間にある虹出版より発行)に載った「あなたはだいじょうぶ」です。
約束の言葉のとおりに
そしてここから、息子が実際にも動き始めたのです。ちょうどイスラエルチームが遣わされ、新たな年を迎えた頃でした。それまで学校には行っていなかったのですが、担任の先生が、最後の学芸会に何らかの形で参加させてあげたいと言ってくださり、音響をやらないかと誘ってくださいました。前日の夜学校に行き、担任の先生が指導してくださり、学芸会当日は、最後にみんなで舞台に立つ時にも、一緒に出て行くことができました。
このことをきっかけに、週に1日、2日と行けるようになって来ました。加えて3学期は、学校に行けないならと本人が希望して始めたギターのおかげで、最後のクラス発表での合奏に参加することができました。そして、3月、息子を含めた全員で卒業式を迎えることができました。
さらに、中学校に進んだ昨年は、1年間遅刻も、早退もなく、なんと皆勤賞をもらったのです。
もうひとつ、主は、恵みをあらわしてくださいました。それは、学校を長く休んでいる時、やはり、勉強がついていけなくなることが心配でした。そこで、勉強がついていけなくならないように、特に、復帰した時に、休んでいたとは思えないようにきちんとわかるようにしてくださいと祈っていました。その時に、「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(ルカの福音書2章40節)が示され、休んでいても、知恵に満ちると語られていました。この言葉のとおり、中学では、学年でもトップクラスの成績で進級することができました。
習っていたギターも、主は、教会でも用いてくださり、中高生の賛美チーム「グロウ・アップ」のメンバーとして、今年の白馬賛美大会に出場します。
どんな時も共にいてくださるイエス様
主は、この3年半を通して、私に多くの訓練を与えてくださいました。しかし、その中で、いままで以上に神様に愛されていることを知りました。それは、息子が学校に行けるようになったから言っているのではありません。これからも、困難や失敗は、私にも息子にも訪れるでしょう。しかし、息子のこのことを通して、イエス様はいつも共にいてくださり、私たちの弱さ、力のなさ、すべてをご存知の上で、決して見放さず、ありのままで受け入れてくださることを確信できました。このことは、大きな喜びであり希望です。
今回、私が証しする機会が与えられましたが、いずれは息子自身がこの時のことを振り返って、語り始めることを信じています。
そして、多くの同じような体験をしているお子さんと親御さんに、どんな時も共にいてくださるイエス様のことをお伝えできたらと心から思います。
すべてのご栄光を、主にお帰しします。
ジョイ宮下淳子
悩みの日の祈り
いじめでお悩みの方
「困難は祝福の前ぶれ」〜御言葉の告白を通して病がいやされ、面接で落ちることがほとんど無くなった〜
仕事がないことでお悩みの方
180度変えられた夫―喧嘩するはずが救われて
夫婦関係にお悩みの方
180度変えられた夫―喧嘩するはずが救われて
森 敬子
がんこで気難しい夫
私たちが結婚したのは、1985年ですが、夫はとても気が短く、短気な性格でした。自分の思うように事が進まないとすぐに怒り出す、それも誰でもかまわず、かみつくのです。長男が生まれて、まだ間もない頃、勤め先の上司と喧嘩(けんか)して会社を辞めてくるという状態でした。それからも、新しく勤めた会社で、自分の思うようにいかないと上司と喧嘩して何度も職場を転々とするという状態が続きました。
救い
次男が生まれて半年頃、私の親友が近くに住んでいたこともあって、毎日のように遊びに来ていましたが、そのうち、その親友が神さまの話しをするようになりました。
その親友とは小学校からずっと一緒で、バレーボールも一緒にやっていましたので、良く知っていましたが、急にイエスさまのことを語り出したのでびっくりしました。なぜなら、私たちは高校の時、仏教高校に行っていたからでした。
彼女の口から「イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかけられ、死なれ、三日目によみがえられた」と言われてもピンときませんでした。しかし、毎日のように喜んで私たち夫婦にイエスさまのことを伝えに来ました。喜んで変わって行く彼女を見て、何かあると思いました。
しかし、主人は頭ごなしに、彼女に向かって「この宗教ボケ!! もう二度と家に来るな!!」と怒鳴りました。 それでも彼女は、主人の言葉にめげることなく、毎日のようにイエスさまのことを伝えに来ました。
私は、イエスさまを信じたいという気持ちはありましたが、主人に内緒で信仰を持つことは出来ませんでした。
それで、友人と一緒に、1回でいいから牧師さんと会って欲しいとお願いしました。主人は思ったよりすぐにそのことを受け入れてくれました。実は、主人はこの時とばかり、牧師に会ってコテンパンにやっつけてやろうと思っていたのです。
1989年1月に、牧師さんが長崎から熊本へ来られるというので、夕方6時に主人と待ち合わせをして一緒に行く予定でしたが、なかなか自宅に帰って来ません。9時ごろ、私たちがしびれを切らして先に行っているだろうと思って帰って来ました。パチンコに行って時間をつぶしていたようですが、私たちが待っていたので、一緒に行くことになりました。
案の定、牧師に会うなり、開口一番「神がいるならここに見せてみろ」から始まりました。しかし、話していくうちに、喧嘩腰(けんかごし)だった主人の態度に変化が起こり、気づくと自分のつらかった時の話などを初めて会った牧師さんに打ちあけ、最後には泣きながら罪を悔い改め、私たちは一緒に信仰告白をして救われました。
教会生活のスタート
それからは、一緒に救われたということもあって、集会や教会に、私と2人の子どもたちは1度も休むことなく通い続けました。しかし、主人は……?と言えば、私と2人の子どもが行っているのでしょうがなく迎えに行かなければならないという理由から、礼拝の終わる5分位前に入ってきて、1番すみの所に座るという状態でした。なので、教会出席率は良く、休むことはありませんでした。
ある時の聖会で、夫婦で祈ってもらった時、預言で「あなたがたの5年後を見ておきなさい」と語られました。まだまだ、救われはしたものの、教会にしっかりつながっていない夫でしたが、そのことを救いに導いてくださった牧師さんに聞いてみたところ「森さん、5年後に牧師になっているんじゃないの?」と言われました。とてもびっくりしましたが、神さまの言葉として信仰をもって受け取りました。
献身へ
それからしばらくして、教会でアメリカにチームが出ることになり、私は次男を連れてチームに参加することにしました。3週間ほどのチームでしたが、チャーチオンザウェイ教会での祈り込みや、カンファランスでの交わりの時などがあり、ドクター・ユウという方との食事会もありました。
その時にドクター・ユウから「あなたのご主人は何をしているのですか?」と聞かれました。実際の目で見たら信仰もしっかりしてないし、教会にも遅れて来るし、と思いましたが、「今はサラリーマンですが、将来は牧師になります」と言いました。後で、これは神さまに語らされた信仰の告白だなーと思いました。
しかし、同じころ日本でも、神さまが主人に直接聖書のマタイの福音書16章18節「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」のみ言葉が与えられました。
それから主人は、牧師になる召しをいただき、神さまに従うようになりました。そこから主人と私の信仰が逆転しました。
その次の年から地方でも神学校が始まり、夫婦で学ぶようになりました。神さまに仕えるのに、子どもがいるからとか、妊娠しているからとか、仕事があるからと、理由にならないと思い、とれる授業はすべてとって学びました。
日曜日から土曜日まで毎日、朝の早天祈祷から帰って朝食と弁当を作って、子どもと主人を送り出し、午前中から神学校や祈祷会などに行ってから、仕事に行き、夕方1回家にもどって夕ごはんをお弁当箱につめて、夜、子どもたちを連れて神学校に行くという毎日でした。よく友人に「家に電話しても絶対いない」と有名になるほどでした。
そうこうして月日はたち、あの預言のことばが語られて5年目に主人は牧師となり、私たち夫婦は佐世保教会へと遣わされました。
聞き従いの恵み
佐世保から三重へ
佐世保教会に遣わされて、色々な祝福と訓練がありました。子どもも4人与えられ、5人目がお腹の中にいて、あと少しで臨月に入るころの事でした。4月初め、三重教会の牧師として移動が語られました。
私としては佐世保で5人目の赤ちゃんを産むつもりでしたし、急に移動と言われても……と思いましたが、祈り、神さまに聞くと「行きなさい」と言われるのです。すぐに産婦人科の先生に相談したところ、「予定日はゴールデンウィーク頃だし、行くんだったら明日にでもすぐに行きなさい」と言われました。
荷物も他の子どもたちも後から来ることにして、私と4番目の子だけ先に三重に行くことにしました。その時、「奥さんだけでは心配だから森さんもついて行ってください」と主人の分の電車代を九州の長老が献金してくださいました。
佐世保を出て、福岡から新幹線に乗り換え、山口、広島とトンネルを通るたびにお腹が張ってきて、陣痛が来始めました。岡山、神戸とガマンしていましたが、とうとうガマン出来ず、名古屋まで行けず、新大阪で下りてしまいました。それから救急車に乗って陣痛をガマンして何軒もの病院を断わられ、大阪の平野にある病院で出産しました。
次の日、窓の外から聞きなれない関西弁が聞こえて、なんで神さまにすぐ従ったのに、私はこんな知らない土地でひとりで出産して寝ているのだろうと思ったら涙が止まりませんでした。
1日中泣いて目が腫れあがり、やっとそれから神さまに祈り、みことばを開きました。
ヨハネの福音書14章1節~3節「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。……わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と語られ、すごく慰められました。それから神さまは、こんな私にもみわざを現されると思いました。
次の日、2人部屋でしたが、新しい人が出産のため入院して来られました。その部屋は長細い部屋で、頭と頭をつきあわすようなベッドでしたが、その中で、神さまのことを伝え、私が退院する時、信仰告白をして救われました。その方は、クリスチャンの学校に行っていたのですが、神さまのことはよく知らなかったらしく、私が、神さまに従ったときに、この方と出会わせくださり、救いへと導かれたと思いました。
それから三重では約1年2カ月の間に70人以上の方々が救われ、多くの祝福を現してくださいました。もし、あの時、すぐに私が従わなかったら、これらの救いや、もしかしたら、夫の召しまでも奪っていたかもしれません。
180度変わった主人
私たちが牧師になると言って神学校に行って学んでいる時、私の両親と主人の両親は団結して「子どもたちもまだ小さいのに、何をうわついた事を考えているんだ。もっと地に足をつけて考えろ!」とものすごく迫害されましたし、私の母は「森くんは、何でも熱しやすく、冷めやすいので、すぐにやめてしまう」と断言していました。もちろん、今までの主人を見ているので当然そう思えたのでしょう。
救われた当時、主人が熱中していたのが、パチンコ・マージャン・ゴルフでした。相当の浪費家でした。我が家の家計も火の車でした。幸い、私の実家が食堂を経営していたので食べるのには困りませんでしたが、その主人を見て、いきなり牧師になるとか言い出したので無理もないかもしれませんが。
両親の反対を押し切り、神学校の学びを続け、信仰の歩みを続けました。その中で、主人が変わって行く姿を見て、両親たちは、このキリスト教には何かがあると思い、自分も祝福を受けたいと思うようになりました。
そして、7年前、私の母が主人を通して救われました。主人の父も約3年前に救われました。あれほど牧師になることを反対し、迫害していた両親たちが、今では、息子が牧師をしていることを、とてもうれしく思っており、自慢のようです。
180度、主人の性格と生活を変えてくださった神さまに心から感謝します。
(月刊「雲の間にある虹」2009年9月号(発行:雲の間にある虹出版)より転載)
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1995年に三沢基地のアフリカ系アメリカ人の兵隊と結婚をしました。当時の私は、クリスチャンになって間もないころで、牧師からノンクリスチャンである夫との結婚について、「つり合わないくびきを負っちゃいけない」と反対されましたが、反対を押し切って結婚をしました。しかし、牧師が話していた通り、結婚は最初からうまく行きませんでした。













































