The Light of Eternal Agape 東京アンテオケ教会

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試練の中で与えられた最高の職場

仕事がないことでお悩みの方

面接を受けても受けても不採用

私たち家族は東京に来て4年になります。子供たちもみな小学生になりましたが、東京に来た当初は保育園に入れず、1年間待機児童でした。主人も働いていましたが、生活のために私自身も仕事をする必要があり、待機児童だったために、昼間は働けなかったので深夜のコンビニで1年間働きました。
1年たち、やっと保育園に入れたので、昼間の仕事を探し始めたものの、なかなか決まりませんでした。 条件に合う仕事を見つけては面接を受けるのですが、不採用。1カ月が過ぎ、2カ月が過ぎて、どんどん焦り始めました。特に何の資格もなかった自分に落ち込んでしまういっぽうでした。焦りから条件に合わないところでもいいから、とにかく早く仕事が決まればいいという思いになって、面接に行ったりもしました。

弱さを感謝する

3カ月が過ぎようとしていた頃です。朝起きて、聖書を読んでいると、ある箇所が目に留まりました。それは、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」ということばでした。私は何の資格もなくとりえもない、弱い自分に落ち込んでいましたが、神様がその弱さを感謝しなさいと言ってくださっているのがわかりました。
聖書には、「すべての事について感謝しなさい。」とあります。それまでも感謝をしていたつもりでしたが、この時、この自分の弱さも心から感謝して、神様にお祈りすることができたのです。
それから数日後、朝刊の広告に求人案内が入っていました。それは自宅から徒歩5分の場所にある病院の求人案内でした。私は元々看護師になりたかったこともあり、医療関係の仕事を探していたので、条件にぴったりのところでした。しかも家から徒歩5分です。すぐに電話をして、面接を受けたのですが、即採用されたのです。私は神様が私のために私に合う最高の職場を用意してくださったと大喜びでした。

試練の中で感謝をし続けて

しかし、ここからまた試練が始まったのです。その職場の仕事を教えてくださる先輩との関係がうまくいかなかったのです。私のことをよく思っていないのが、言葉や態度で伝わってきます。私は一生懸命がんばっているつもりでしたが、一つひとつ細かいところまで文句を言われたり、汚いきつい仕事は全部私に回ってきました。私の他に入ってきた新人も、この先輩とうまくいかず辞めてしまうということも起こっている状況でした。仕事の帰りには、慣れない環境の中、疲れもあり、辛くて涙が出ることもありました。神様が導いてくださった職場のはずなのに、なぜ、こんなことが起きるのかと、つまずきそうになる状況でした。このままでは、他の人みたいに私も辞めてしまったほうが楽なのではないかと考えもしました。でもそんな中、毎日毎日感謝をし続けました。神様が導いてくださった職場なのだから、何を言われても文句を言わないで感謝をしようと心に決めて、毎日毎日感謝をし続けることができました。
状況は変わらず1カ月が過ぎようとした頃、その先輩が他の病院に異動することが決まりました。そしてその時、その先輩の方から私に、今までのことを謝ってきてくださったのです。私はとても驚きました。そして私に「出西さんはこの仕事に向いているから、がんばって」と声をかけてくれたのです。私はとても辛かった状況が一変し、本当にとても神様に感謝をしました。
それからもう3年近くなりますが、今も同じ職場で働いています。時給も上がり、またいろんな仕事も任されるようになり、とても働きやすい環境で、とても祝福されています。あのときに感謝をせずに辞めていたらと考えるとぞっとします。本当に神様は最善をしてくださるお方です。

出西恵子(東京都)
(月刊「雲の間にある虹」2014年5月号 雲の間にある虹出版発行 より転載)


苦しみに会ったことは私にとって幸いでした

うつ病で苦しんでいる方

傷付いた心を抱えて東京へ

私は新潟で生まれ、その後父の転勤で横浜に移り住みました。そこでの生活は非常に楽しかった思い出があります。しかし、小学4年生の時、父が今まで勤めていた会社を辞めて、父の実家で祖父母と同居することになり、三重に引っ越しました。そこでは、祖父母と母の関係がうまくいかず、家の中はいつもおかしな雰囲気で、私は早く大人になってここから出て行きたいと思っていました。さらに高校に進んでからは、人間関係で悩み、学校に行けなくなってしまった時期があり、ますますここから出て行きたいという思いは強くなりました。何をして生きていったらいいのかと考えるようになり、心は大変傷付いていました。そこで私は、親の反対を押し切って東京の大学を受験し、上京したのです。

イエス様との出会い

大学生活は表面的には楽しかったのですが、私の心の傷がいやされることはありませんでした。そんな時、大学の同じクラブの一つ上の先輩とお付き合いすることになったのです。それが今の主人です。彼は自分がクリスチャンで教会に行っていると話してくれました。さらに、彼が抱えていた問題をイエス様が解決して下さったということを聞き、この神様なら私の心の傷の問題も解決してくれるのかもしれないと思うようになったのです
しばらくして、彼に誘われて教会の礼拝に出席するようになり、教会でなされていた賛美やメッセージに触れられ、私はイエス・キリストを救い主として信じ救われました。私の心の傷をいやして下さるのはこの方だということもはっきりわかり、非常に大きな喜びで満たされていきました。

所属すべき教会はどこですか

教会に行き始めた頃、私たちは彼の母教会であるペンテコステ系の教会と、主の十字架クリスチャンセンターキリストの町教会(現・東京アンテオケ教会)の2つの教会を行き来していました。彼は自分の抱えていた問題の解決を求めて主の十字架クリスチャンセンターに導かれ、解決が与えられたのです。しかし、それにもかかわらず、「主の十字架の教会に所属してしまったら、自分は神様に献身を導かれるに違いないから。」と言って、主の十字架の教会に行くことから逃げてばかりでした。
私の方は、深い賛美の恵みや、賜物の働きが顕著に現され、行くたびに生きた神様の証しを聞くことができた主の十字架の教会に行きたいと思っていたのですが。
救われているのにどこの教会にも所属できない中途半端な状態がしばらく続きましたが、このままの状態をもうこれ以上続けられないということで、どこの教会に所属すべきか、私たちは神様に真剣に真剣に祈りました。そうしましたら、ふたりとも、「主の十字架クリスチャンセンターキリストの町教会(現・東京アンテオケ教会)」という神様からの明確な語りかけを祈りの中で受けたのです。その語りかけを受けて彼の方もようやく決心がついたようで、私たちはついに正式に主の十字架クリスチャンセンターキリストの町教会(現・東京アンテオケ教会)に所属することになり、1996年8月、私は洗礼を受けることができました。

献身、そして結婚

その後、教会で語られた知恵・知識のことばを通して、「主に祈り聞き従う中であなたの傷をいやします。」という語りかけを受けました。私はしっかりと教会に属し、奉仕をさせていただく中で、また、信仰生活の一つひとつのことを通して神様に祈り聞き従い、神様を体験していく中で心の傷がいやされていきました。神様のために生きれる、神様のために働かせていただくことができることが、私には嬉しくてたまりませんでした。そして、私と彼は献身へと導かれていきました。
1999年11月、教会から遣わされたイスラエルチームに参加させていただいた時、彼との結婚が明確に示され、翌年2000年2月に結婚が導かれました。これからは二人で神様に仕えていくことができるという喜びで私はいっぱいでした。

うつ病に

結婚した当初、主人は早く子供が欲しいと思っていたようですが、私はまだ二人の時間を楽しみたいし、今の生活で精一杯だから、少し落ち着いてきてから子供のことは考えたいと思っていました。そして少し時がたって、私の方もそろそろ子供のことを真剣に考えていきたいと思い始めていた頃、突然ある問題が起こり、その事をきっかけに私は心の病にかかってしまったのです。
病院で私はうつ病と診断されました。そこから教会で病のためにいやしの祈りをしてもらいつつ、病院に通って治療を受ける生活が始まりました。起こってしまった問題の大きさと、許された病のゆえに、今まで語られてきた神様の約束のことばや、召しのことがもう成就するのが不可能なのではないかと私には思われました。そして、欲しいと思い始めていた子供も、もう無理なのではないかと思われたのです。もちろんうつ病を克服している方はたくさんいますが、その時の自分の状況を見るとどうしてもそう思えてならなかったのです。私は、悲しみと大きな絶望感の中にありました。

御言葉を握って

しかし、病気になってしばらくして、家で一人で力なく聖書を読んでいたときのことです。通読箇所を読んでいると一つの御言葉が心にとまりました。それは、マタイの福音書2章20節、「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。」ということばでした。私たち夫婦には、海外宣教の召しが神様から語られており、その中でも特にイスラエルに重荷が与えられています。なので、この御言葉を読んだ時、「神様が、召しの国に私たちを遣わされる時、子供が与えられて家族で遣わすと言っておられるんじゃないか。」という思いが与えられたのです。私はこの御言葉を握りました。
この御言葉が与えられてからすぐに、病院でカウンセリングを担当して下さっていた先生に、「子供が欲しいんです。」ということを話しました。ところが先生からは、私が期待していたのとは全く違う答えが返ってきたのです。
「妹さんの子供をかわいがればいいじゃない?子供なんて手がかかるだけだよ。第一、今産んであなたは育てていけるの?」
私のことを心配して言ってくれているのはわかりましたし、先生の言葉はその通りだと思わされました。その時の私はたくさんの薬を飲んでいましたし、もともと得意でなかった家事全般をすることに非常なストレスを感じるようになっており、家のことが何もできない状態にあったのです。子供を産んでも育てていくことは無理だと自分でも思いました。やっぱり子供が欲しいなんて考えてはいけないのかなと悲しくなりましたが、「神様が語られているなら、この御言葉を握りたい、握らせて下さい。」と神様に祈ったのです

イスラエルで受けた約束の言葉

2005年11月、私たち夫婦は神様に語られて教会から遣わされるイスラエルチームに参加しました。行く先々でもたれる礼拝の中に神様の深いご臨在が現され、非常に祝福を受けました。その中で、アルベル山という、イエス様が弟子たちに大宣教命令を語られたという山での礼拝の時のことです。賛美をしている時、今までにない強い臨在を感じ、まさに主が今ここにともにいて下さるということを強く体験しました。その後、黙想の時が持たれ、開いた聖書の通読箇所が、マタイ2章20節のことばだったのです。非常に強い臨在の中で語られたので、今度は確かに神様が語っておられると確信して、この御言葉をしっかりと握ることができました。
さらに2006年3月、今度はアメリカチームに夫婦で行くように語りかけを受け、参加させていただきました。ある場所でチームで礼拝を持ち、賛美の深いご臨在の後、黙想の時が持たれました。私は神様に、「今、神様が私に与えて下さる約束の言葉は何ですか?」と祈りながら聖書の通読箇所を読んでいました。すると、ローマ人への手紙9章9節、「約束のみことばはこうです。『私は来年の今ごろ来ます。』」という御言葉が明確に与えられたのです。ここはアブラハムとサラに来年子供が生まれると神様が語られた箇所ですが、この言葉を通して、来年の今ごろ子供が与えられているのではないだろうか? という思いが与えられたのです。私はこの言葉をしっかりと握りました。
すぐに状況が変わった訳ではありませんでしたが、その年の終わりになって、病気の状態が驚くほど良くなっていったのです。その頃主人の方にも子供が与えられるという示しが与えられました。そしてそれまで5年間、増えはしても減ることのなかったうつ病の薬が初めて減ったのです。
私たち夫婦は主治医の先生に、「子供が欲しいんです。」と話しました。すると先生が、「病状がとても良くなっているので、その方向でがんばっていきましょう。」と言って下さいました。

神様の言葉は真実
―娘を出産、病のいやしと回復

年が明けてすぐ、体調がすぐれず、自分の休みの日に病院に行こうと思っていました。病院に行く日の朝、教会のデボーションの聖書の箇所を開きましたら、それがローマ9章で、9節の「私は来年の今ごろ来ます。」と約束の言葉が再び語られました。「もしかしたら。」と思って病院に行きましたら、その時子供が与えられたということがわかったのです。
2007年9月、私は無事に娘を出産しました。娘は元気に育っています。また、できなくなっていた家事もできるようになり、主人も驚くほどのいやしと回復も受けています。私たちは今、主にある喜びで本当に満たされているのです。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」         詩篇119篇71節

病気や問題が許されましたが、その中で神様の深い愛と神様の言葉がいかに真実であるかを、私は知ることができました。召しのことばの成就はまだこれからですが、不可能と思えるところから神様が子供を与えて下さり、ことばを成就して下さったように、主の時に成就することを信じています。
すべての栄光を神様にお帰しします。

エルサレム藤井文

(月刊「雲の間にある虹」2009年8月号(雲の間にある虹出版発行)より転載)


夫のリストラに感謝!

仕事がないことでお悩みの方

イエスさまとの出会い、夫との出会い

 私はミッションスクールの高校に入学して初めて『イエス様が真の神であり、この方を通してのみ天国に行ける』ことを知りましたが、その頃はそれが自分の人生に関わる大切なことだとは思っていませんでした。
 しかし社会人となってからは、何をしても虚しくて生きていく希望も無くなりかけた頃、三浦綾子さんの本を読んだことをきっかけに、クリスチャンになりたいと思うようになりました。その頃夫と出会ったのですが、思い切って彼にそのことを話すと、一笑に付されると思いきや、長く同居していた叔父さんが熱心なクリスチャンで、よく自宅で集会をしていたのを見ていたと言って、私がクリスチャンになることに賛成してくれたのです。しかし私は教会に行くこともなく、ただ心の中でイエス様を信じているだけで、生活は荒れ果てていました。そしてとうとうアルコール依存症のような状態になってしまったのです。このままではクリスチャンになれるどころか、身も心もぼろぼろになってしまうと思い、その生活から脱出すべく渡米を決意しました。
 渡米してから生活は一変しました。教会に通うようになり、心身ともに健やかになってきたのです。そして2年後に帰国してすぐに、忍耐して待っていてくれた夫と1983年10月に結婚しました。

出産、子育ての中で

 出産するまでは教会に通っていましたが、子育てに追われ心に余裕がなく、いつの間にか教会から離れてしまいました。夫は仕事一筋で日曜日の休みもなく、朝早くから夜遅くまで働いていました。私がもっと家族と過ごす時間を作って欲しいと願っても、夫は聞く耳を持ちませんでした。私は一人で年子の子ども二人の世話をすることに疲れ果ててしまい、夫に対する不平不満で心が一杯になり、夫と結婚したことを後悔する毎日でした。私は自己憐憫(れんびん)に浸り、夫を始め周りの人達を責めはしても、感謝することはしていませんでした。

再び教会へ

 私の心が人に対する憎しみで一杯になっていた或る日、私の不注意で長女の手に大火傷を負わせてしまったのです。娘が植皮手術を受けなければならないと医者から告げられた時、目の前が真っ暗になり、子どもを道連れに死のうとさえ思いました。思わず心の中で「神様、助けてください。」と叫んでいました。すると、病院の近くに、結婚後しばらく通っていた教会があることに気づき、すぐにその教会に行って、牧師さんと話をしていく中で、やはり私が居るべき所はイエス様のところだと気付かされ、子ども達と共に教会につながり始めました。
 それからしばらくして、チョー・ヨンギ牧師の本を通して、罪の悔い改めと赦しが導かれ、私は憎しみから解放されて、晴れて1990年の12月に受洗し、名実共にクリスチャンになることができました。その時私は人生の目標を達成したと思っていましたが、「神の御思いは私の思いよりはるかに高い」ことを後になって知ることになりました。

変えられた父への思い

 その頃私は脳梗塞で闘病生活を送っていた父の看病のため、週末には長崎に行っていたので、日曜日は長崎で礼拝を守っていましたが、父の病気のいやしを願い、また信仰的に渇きを覚えていた私は、いやしなどの聖霊の働きが現れている教会に行きたいと思うようになりました。
 また確かに父のいやしを願ってはいましたが、それ以上に父も天国に行って欲しいという強い願いが私の内側に湧いてきました。今私はクリスチャンになって初めて、それも「すべての事を感謝すること」を学び始めてから、周りの人を心から愛せるようになったように思います。しかし、私は、よく泥酔して怒鳴り散らす父に対する恐怖心や嫌悪感があり、それまで父にはあまり愛情を感じたことが無かったので、私がそのような願いを持つことなど考えられないことでした。私は罪を悔い改め、赦し、そして感謝をすることを通して、主が私の内側を作り変えてくださったのだと思います。

父の救い、家族親族の救い

 父がイエス様を信じるように祈り始めた矢先、突然父がリハビリで入院中の病院で敗血症にかかり危篤状態になってしまったのです。医者は父の命はあと2~3日と宣告しましたが、私は父に福音を語っていなかったことを悔い改めて、「父が救われるまで生かしてください!」と必死で主に祈り求めました。主は私の祈りを聞いてくださり、父は奇跡的に回復したのです。
 私は主が与えてくださった時間を無駄には出来ないと思い、その頃通い始めたばかりの、現在属している群の教会の牧師さんにお願いして、入院中の父の所に来て話をしていただきました。程なく父はイエス様を自分の救い主と信じ救われ、毎週牧師さんが父の病室に来てくださり、主を礼拝する時を持つ中で、父は病床洗礼を受けて数カ月後に天に召されました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16章31節)このみことばの約束通り、神様は父を救ってくださったばかりでなく、同時に私の姉夫婦や妹にも救いを与えて下さいました。
 義兄の救いは劇的でした。姉がイエス様を信じて約2週間後、義兄は自分の舟で釣りに出かけた後遭難し、大しけの海を一昼夜漂流して、海上保安庁から絶望視されている中、奇跡的に助かったのです。姉は一晩中神に祈り続け、義兄も「神様助けてください!」と叫び続けたそうです。義兄はその後教会に行き救いを受け、夫婦揃って教会につながり、現在は牧師としての働きを担っています。

「その約束を果たしなさい」

 1992年2月に佐世保教会がスタートしてから、主の恵みによって私の信仰生活は強められていきましたが、私の夫はと言うと、イエス様を信じ救われましたが、仕事を理由に、ほとんど礼拝に出ることはありませんでした。私は夫が救われただけでもいいと思っていましたが、神様の御旨(みむね)は違っていました。神様は直接夫に御手を伸ばしておられたのです。
 ある時、彼の出身地の高校の野球部が初めて夏の高校野球の地区予選の決勝に進出した試合を観戦している時に、夫は神様に「彼らを甲子園に行かせてください。もし勝たせてくださるなら私は洗礼を受けます。」と祈りの中で誓ったそうです。するとそのチームは勝って甲子園に行くことになったのですが、夫は神様との約束を果たすことなく時は過ぎて行きました。
 或る日夫が出勤する時に、私が何気なく渡した東京の教会の礼拝テープを車の中で聴いていると、礼拝の最後の方で、牧師が「あなたは確かにわたしに誓った。その約束を果たしなさい。と主は言われます。」と知恵、知識のことばを語られたそうです。夫はそれを聴いて、主が自分に語っておられるということを直感し、受洗に至ったのでした。

リストラに「ハレルヤ!」

 しかしそれでも夫は相変わらず仕事第一の生活を続けていました。そのような状況の中で、1998年の年頭に聖書を読んでいる時、主は私に「時が来ました。」と語ってくださったのです。しかし特別なことが起こるでもなく月日は流れ、あと2カ月程でその年も終わろうとする頃、私は牧師さんの勧めで始まった家庭祈祷会で、今の会社に勤めている限り日曜日には休めないことなど、夫の現状を感謝し、夫が日曜礼拝に出席できるようになるようにと毎回祈っていました。
 一カ月程経った或る日のこと、電話が鳴ったので出てみると、夫からの電話でした。
 夫は何か改まった口調で切り出しました。「今度支店が縮小されるので、会社を辞める事になった。」と言うではありませんか。私は心の中で “来た!”と叫んでいました。そして思わず「ハレルヤ!」という言葉が口をついて出て来たのです。
 突然のリストラで、私が泣き叫ぶか、自分を責め立てるかのどちらかだろうと予測していた夫は、自分の耳を疑い、そして一瞬、私の頭が変になったと思ったそうです。確かに、自分の夫が20年近く勤めて来た会社からリストラされて、喜ぶ人はいないと思いますが、私は夫がクリスチャンとして最も大切な礼拝出席が出来るようになるようにと、主に祈っていましたので、祈りを聞いてくださった神様が、夫の人生に最善をなしてくださったと主に本当に感謝しました。夫が失業するという困難のただ中でも、私の心は不思議なくらい平安だったのです。
 そこから夫婦で “主を第一とし主に拠り頼む”人生が始まりました。その年の2月のマーリン・アメリカチームには夫婦で、3月の子どもアメリカチームには家族4人で参加する恵みに預かることが出来ました。かつて、子どもチームに夫を除く家族3人で参加しようと信仰で申し込んだことがありましたが、その時は実現しませんでした。しかし神様は最善の時に、最善の形でアメリカチームに参加させてくださったのです。主は本当に憐れみ深く真実なお方です。 

夫の献身、叔父のとりなし

 ある時、夫が神学生になったことを知ったクリスチャンの叔父が、突然私たちの教会を訪れたことがありました。自分の甥がどんな教会に属しているのか心配で様子を見に来たようでした。叔父が「安心した。私は牧師になりたくてもなれなかったが、あなたにすべてを託すからね。」と明るく笑って言っていたのを私は覚えています。その後、叔父は病に倒れ、しばらくして天に帰って行きました。
 夫は2002年5月6日に按手を受け牧師として立たせていただきましたが、叔父が夫のために天でとりなしてくれていると私は信じています。
 日々色々な形で訓練や学びがありますが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)というこの御言葉の真実を今私たち夫婦は体験させて頂いています。
 夫は半年程前、リストラされた会社からオファーを受け、牧師という立場を優先する形で、その会社で再び働くようになったのです。神様のなさることは計り知れません。どんな困難や問題も、私たちのために益としてくださる恵み深く、憐れみ深い主に心から感謝します。

山田真喜子

(月刊「雲の間にある虹」2008年5月号(雲の間にある虹出版発行)より転載)


新しい者へと造り変えられた

自殺を考えている方

ギャンブルや酒、たばこが若い頃から大好きで、それ無しの生活は考えられない者でした。救われてからもたびたび神さまから離れてしまった私を、神さまはあわれみと恵みによって、まったく新しく造り変えて下さいました。

 私は、今から約14年前にイエスさまを信じ、救われ、1998年1月1日に洗礼を受けました。
 キリスト教というなら外国の宗教であり、自分には関係のないものとずっとそう思って生きて来ていましたが、先に妻が救われ、妻の勧めによって、教会に行くようになりました。その頃は、夫婦仲も悪く、家庭もぼろぼろで、いつ離婚してもおかしくない状態でした。
 私は、ギャンブルや酒、たばこが若いころから大好きで、中学のころからシンナー等をやっていて、高校の時には毎晩お酒を飲んでいました。だからギャンブル、お酒、たばこのない生活は考えられない者でした。教会に行く中でギャンブルや酒やたばこ等は、やってはいけないという事を知りました。心のどこかでは、いつかは止めなければならないという、そのような気持ちがあったのですが、現実にはなかなか止められませんでした。
 人生面においてもそうなのですが、私は無知のゆえに、神さまにケンカを売っていたのかもしれません。御言葉に神を試みてはならないという箇所がありますが、私はバリバリ神さまを試していたような気がします。「この俺を変えられるものなら変えてみろ」とその当時は思っていました。今、思えば何と愚かな事をしたと思っています。

神様から離れて、増える負債に苦しむ日々

 その後、献身に導かれ、神学校で学び始めましたが、まだまだ心が定まらず、たばこ、酒を止められず、ギャンブルもしていました。また、仕事を優先していて、後では、神学校は名前ばかりで通わなくなり、日曜礼拝も行ったり行かなかったりとなり、神さまから心が離れてしまいました。神さまから離れてしまっていたがゆえに、仕事面においても、家庭面においても、悪い方へと進んで行ってしまいました。その当時は自分で建設業をしていました。仕事もうまく行かず負債が増えるばかりでした。
 おまけに、パチンコが好きで勝っても負けても毎日のように通っていました。そうするうちに負債が増え、返済ができなくなり、そして、ヤミ金まで手を出してしまい、きびしい取り立てを受けるようになりました。やくざからの取り立ての電話がかかるようになり、日々おびえて生活をするようになりました。自分ではどうする事もできず、警察に相談に行った事もあります。この時の自分はまったくといってよいほど信仰がなく、祈ったり感謝したりする事がなかったのです。神さまに祈り求める事すらできないで、ただ、自分の考えで行動をとっていました。このような状況は妻も知りませんでした。いよいよもうどうする事もできない状況になりましたが、神様に頼るより、お酒に逃げていました。

自殺を図るも…「わたしの所に来なさい」

 そんな中、もう死にたいという思いが来て、死のうと思いました。自分が死ねば保険金が入りそして保険金で借金が返せる、家族には迷惑かけずに済むと思ったのでした。釣りが好きだったので、川でおぼれて死んだ事にしようと思って、川に行きました。ウィスキーをがぶ飲みし、川に飛び込もうとして足がすくみましたが、思いっきり飛び込みました。そこは滝になっていて渦(うず)をまいていました。もう死ぬんだなーと思いましたが、気づいた時にはその渦(うず)をすり抜けて下流の方に流されて、何十メートル流されたでしょうか? 気がつけば足が届くところにいました。もう1度飛び込み直そうとしましたが、その時、「わたしの所に来なさい」という声が聞こえました。その声で自殺する事を止めました。今思うと、その声は神さまの声だったと思います。そして、気がつけば神さまに感謝の祈りを捧げていました。神さまが触れて下さったのです。その時、自分は何をしているんだろうと思いました。そして、今度は逆に、死にたいから「生きたい」という気持ちになりました。
 それから妻に借金の事を打ち明けました。全ての事を言って全ての事を神さまにゆだねようと思いました。妻の反応は意外と冷静で、ここ2、3日私の様子がおかしい事に気づいていて、自殺未遂を起こした日においては、私の為に祈る事が導かれていて、とりなしの祈りをしていた事を聞きました。それから夫婦で感謝の祈りをしました。自己破産はしたくはなかったのですが、自己破産をしました。でもそのおかげでカードも使えなくなりお金も借りられない状態になり、神さまに感謝しました。
 今、思えばこの自殺未遂があったからこそ、神さまのあわれみや恵みを知り、本当に神さまはおられるんだなという事を実感しました。自殺未遂によって、神さまの愛を知り、ギャンブルを完全に止める事ができました。
 「すべてのことについて感謝しなさい。」「すべての事を働かせて益としてくださる」という神の言葉がありますが、本当にその通りです。その事があって心を入れかえて再び献身の道を選び、もう1度神学校に入りました。

お酒を完全に止められた

 お酒は、15歳ごろから飲んでいました。かつてはお酒を飲んで車の運転もしていて、2回ほど酒気帯び運転で捕まっています。酒ぐせは、すごく悪かったのです。クリスチャンになってからも毎晩、お酒を飲んでいました。
 ある時、酒に酔っていて娘を叱り、娘の頭を殴ってしまいました。その時、神さまの守りで娘の頭はどうもなくて、自分の手は骨折しました。しばらくは、仕事ができず、その時、神さまから深い悔い改めが導かれました。娘を殴ってしまった事を悔い改め、今まで酒で犯してきた罪、いろんな事が思い起こされ、神さまの前に出て真実な悔い改めをしました。また、本気で酒を止められるようにと神さまに祈りました。
 次の日から、30年間飲み続けてきたお酒を、完全に止める事が出来ました。神さまの御名をほめたたえます。お酒を止めて6年が経ちました。会社の飲み会に参加しても、ぜんぜんお酒をほしいとも思わず、はっきりと自分はお酒は飲めない事を伝えています。

「主は待っておられる」

 神学校に戻り、最初の数年間は調子良く行っていましたが、それでも献身しきれていない自分がいました。再び仕事を取ってしまい、神学校、礼拝をよく休むようになりました。堕落して神から離れて行く自分がいました。そして御心を行わないがゆえに再び、仕事においても全ての事においてもまた、行きづまりました。
 ああもうだめだと思っていた時に神さまから語りかけがありました。耳元で「主のもとへ行こう、主は待っておられる」(*)という賛美が耳から離れず、特に「主は待っておられる」というところが耳から離れません。ここは選びの時ではないかと思い、そこで本気になって心を定めました。すると悔い改めが導かれ、今までの事を本気で悔い改めて本気で感謝して祈りました。神さまは、この時から私自身を大きく変え始められたのです。
(*編集部注:「主のもとへ行こう」、雲の間にある虹出版より発行の「やすらぎの歌」ゴスペル第6集に所収)

たばこからの解放

 次にたばこです。たばこだけは絶対止められないと思っていました。何度も止めようとがんばりましたが、最高3日が限界でした。いつかは止めないといけないと思っていましたが、なかなか止める事ができませんでした。教会で行われる聖会、行事、キャンプなどの時は、隠れてたばこを吸っていましたが、匂いで、周りには分かっていたと思います。
 ある日、教会の牧師より、もうそろそろ、本気になって止めた方がいいと言われました。神さまを選ぶか? たばこを選ぶか? 自分にとっては選択の時でした。本気で神さまに祈りました。「苦しまずにたばこを止める事ができるように」と。1日目…2日目…3日日ぐらいから苦しくなりましたが、神さまに感謝しました。とにかく心を定めて神さまに感謝し続けました。そして……ハレルヤ!!主の御名をほめたたえます。完全にたばこを止める事ができました。2009年9月から止めて1年が過ぎました。

新しい者へと造り変えて下さった

 長い年月の中でいろんな事がありました。私が神さまから心が離れて教会に行ったり行かなかったりを繰り返している時も、妻は教会に行き続け、つながり続けました。その中で教会の恵みを受けました。
 最近、妻との会話が増え、神さまの事を話せて、夫婦でいる時がとても楽しいです。一番嬉しい事は、夫婦で祈れる事です。賛美隊として立って毎週日曜日路上ライブをしている事です。神さまの働きに立っている事が私たち夫婦にとって最高の歩みと思えるようになりました。そのような夫婦に神さまは、変えて下さいました。
 親子の間も回復が与えられ、父親として、子どもが悪い事をした時、本気で愛をもって叱る事ができるようになりました。子どもの話を真剣に聞いてあげられるように変えられました。すべて神さまが変えて下さいました。
 神は真実なお方であられます。そして御心の祈りを聞いて下さって全く新しい者へと造り変えて下さいました。私は身をもって神のあわれみ、恵み、神の愛を受けました。
 2010年10月25日、神さまのあわれみ、恵みによって人吉教会の牧師としての按手を受けました。自分自身、まさか牧師になるとは思っていなかったので、驚いています。
 神さまに心から感謝します。すべての栄光を神さまにお返しします。

ダビデ村上(熊本県熊本市)

(月刊「雲の間にある虹」2010年12月号(雲の間にある虹出版発行)より転載)


教会につながる恵み―うつ病のいやし、経済の祝福

うつ病で苦しんでいる方

―返せない額の負債を抱え、うつ状態がひどくなり、仕事も家事もできない限界状態の中、姉に誘われて教会に行きました。そして……。

青木幸代(三重県四日市市)

初めての教会で語られた言葉

 長女が小学一年生の時、突然の血尿そして不登校で悩んでいました。「姉から教会においでよ」誘われましたが、いやだったので断り続けていました。
 ある時、母が洗礼を受けるから軽い気持ちで見においでと言われ、夫と子どもたち一緒に初めて教会に行きました。母の洗礼には感動しましたが、歌やお話の時は退屈で何も記憶にありません。唯一覚えているのは聖会の最後に祈ってもらった時「しっかり教会につながりなさい」と言われたことだけでした。
 結局病院に行く事になった娘は、検査をしても体に異常はなく、精神科のカウンセリングが必要だと言われ娘と通うようになりました。そして娘はなんとか学校に行けるようになり、私は祈ってもらった時の言葉など忘れていました。

リッチな生活からどん底の生活へ

 夫は長女が生まれる半年前、会社員を辞め、自営業を始めました。仕事は順調で服を買うのも値段を見ることなく購入することが出来るリッチな生活、それがある日を境に大手に仕事を持っていかれ、収入がピタリと止まってしまいました。
 生活のためにサラ金からお金を借り、その時の負債が増え、返せない額になり、どん底の生活の中、車好きの主人がお気に入りのレトロカーも売り払い、私も夜の仕事を始めました。家に帰るのは毎日朝4時か5時、睡眠不足から子供を保育園に送る途中、人身事故を起こし、精神的にも一杯一杯でうつ病にまでなってしまいました。それでもその日その日のお金を工面する為働くことに必死でした。

教会へ

 しかし、うつ状態がひどくなり、仕事を辞め、家事も何もできなくなり限界が来た時、姉に助けを求めると教会に誘われたので仕方なく行く事にしました。祈ってもらった時に自然に涙があふれ、神様がいることを感じました。私はイエス様を信じるお祈りをし救われました。

うつ病がいやされる

 教会に行って救われてから、うつ病がすっかり治り、元気になり、主人の仕事も少しずつ元に戻ってきました。
 私は主人に教会の事を話しましたが、大反対!! 主人は神様より自分の力が一番だったので、日曜日教会に行くことは出来ません。私は内緒で火曜礼拝に行く事にしました。以前とは違い教会に行くことが楽しく、いつも喜びがありました。

什一献金の恵み

 教会で什一献金(収入の十分の一を神様に捧げる)の事を教えてもらい私のパートの給料分の十分の一、三千円の什一献金をすることにしました。
 什一献金を始めてからどう言うわけか、支払いが出来るようになり、日々の生活もまわるようになり、何がなんだかどうなっているのか自分でもわからないうちに、一千万円近くもあった借金が半分以上減っていました。神様が助けてくれたことを心から感謝しています。これからもよろしくお願いします!! 今では主人に教会の話も出来るようになり、いつか家族で教会に行けるのを楽しみにしています。

(月刊「雲の間にある虹」(発行:雲の間にある虹出版)2008年3月号より転載)


「あなたの悲しみは喜びに変わる」

離婚でお悩みの方

前夫とは、仕事先で出逢い、約2年の交際を経て結婚しました。すぐに新しい団地に家も建て、これから子供も産まれ新しい家族ができる、、はずでした。しかし2年たっても子供ができず、夫婦で不妊治療専門の病院に行きました。原因は一方的に私にありました。若い頃から患っていた子宮内膜症の他に検査の結果先天的に片方の卵管に穴が空いていて受精が難しいことがわかりました。写真と映像を見せられ、不安が襲ってきました。しかしその時神様を知っていて良かったです。同じ団地に同時期に家を建てたクリスチャンの友人がいたのです。彼女は、その当時この信仰のために、ご主人が家を出て行きもう何ヵ月も帰って来ない状況でした。幼い2人の子供と三人で、彼女は夫の帰りを待っていました。彼女は、「うちの旦那は、神様が絶対自分達家族の元に帰してくださる。しかも帰って来て献身し、牧師になり、夫婦で神様に仕えるようになる。」と信じていました。最悪と皆が思う状況で彼女は、教会からずっと離れませんでした。それから、一年半後悔い改めご主人は、帰って来ました
。しかもそればかりではなく、あんなに迫害した教会の献身者となり、今では、牧師となり、夫婦で神に仕え、高校生となった娘達もゴスペルを通して神様を誉め称えています。さて、私の話しに戻りますが、不妊の原因が自分にあるという事が判明した半年後離婚が許されました。ノンクリスチャンの元夫は最後に、子供も出来なくてもいい、信仰を持っててもいい、ただ教会に行くというのがどうしても耐えられなかった、と言われました。身を裂かれる思いで、別れましたが、これは私にとって昔多くの日本のクリスチャン達が通された「踏み絵」であるんだなと思わされました。教会に行かないと言えばその時は、離婚せずにすんだのかもしれません。でもその場しのぎで、ごまかすのは、主の御心ではないし、教会に行かない約束してもすぐ隠れて行くだろうと思いました。神の国と神の義を第一としなさい。そうすればみな与えられます。と聖書に書かれてあります。復縁を祈っていましたが、元夫は、それから一年半年ぐらいたって再婚していました。願っていただけに正直ショック!でしたが、泣きながら、これも神様最善です、感謝します!と踊り上がり主を誉め称え賛美しました、なぜなら、神を愛する人々には、すべてが益になる事を私たちは知っているからです。それから、元夫の新しいお嫁さんと産まれたお子さんのため祝福の祈りが、主の前に捧げる事ができました。それから仕事先で会ってもなんのわだかまりもなく、未練も全くなく、こちらのほうから、懐かしい親戚みたいな感覚で「みんな元気?」と明るく話す事が出来ました。神様は、元夫の家族親族友人にも救いの手をのばしておられることを信じています。天で再会したいと願っています。私は、はたからみれば、夫に離婚された不妊の女ですが、悲しみはありません。キリストのみからだなる教会に行き続ける中で、癒され慰められ喜び平安を受け続けています。「あなたの悲しみは喜びに変わる。」と主は、約束してくださっているからです。これから神様がどんなにか私の人生を祝福してくださるか、楽しみです!主を誉め称えます。

M.O


孤独と憎しみからの解放と家族の回復

親子関係でお悩みの方

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒の働き16章31節
この御言葉が私を支えました。
イエス様からの多くの恵みと祝福を心から感謝致します。イエス様の大きな愛によって、私は解放されてきました。私のうちにあった、憎しみも、悲しみも、苦しみも、孤独も、すべての事柄から解放されました。

生い立ち
私は熊本市で生まれ育ちました。父は左官業を営み、母は専業主婦でした。母は知的障害と共に、統合失調症を患(わずら)っています。私の上に姉がいたのですが、私が生まれる前に幼くして亡くなっていました。両親は小さな娘を失ったため、私が生まれてくる事をとても待ち望んだそうです。
私に小さい頃の記憶があるのが三歳前ぐらいからですが、もうその頃には、父と母は別居状態でした。父は、毎日朝と夕方だけ、ほんの一時顔を見せます。父の居ない夜にとても寂しくなり、いつも大声で泣いて、父を呼んでいました。しかし、父は夜、帰って来てくれる事はありませんでした。いつも家に居てくれる父が欲しかったのを覚えています。
この頃の日中の母は、私に対して何かしら気に入らないと、虐待をするのでした。叩いて、私の頭の髪の毛をわしづかみにして8畳の部屋をすごい勢いで引きずり回すのでした。
怖くて、痛くて、とても辛くて、腹の底から大声で泣き叫んでいました。
それは頻繁(ひんぱん)でした。母からの虐待に気づいた父は、見るに見かね、父の姉に、一緒に住んで私の面倒を見てくれるように頼んでくれました。それで伯母と母と私の同居が始まりました。伯母は、その頃交通事故の後遺症で、2、3年程床に伏しがちでしたが、それでも母の虐待から体を張って守ってくれていました。
母は病気のせいもあってか、気性が非常に激しく、家の中で暴れる他に近所に住む私の友達のお母さんにも暴力をふるったりした事もありました。大暴れする事が数年続き、周りもどうしようもなくなり、結局、母は精神科の病院へ十数年長期入院する運びとなりました。私はこんな母がとても憎く、母の存在を受け取れませんでした。父の存在も、同じ思いでした。父は母と離婚しないにしても、身勝手で、別の女性と暮らしていました。そんな父も赦せませんでした。また、父はたくさんの借金をつくって、家族親族にも迷惑をかけました。
普通の両親がほしくて、私の心の中は「どうしてこんな両親の間に生まれて来たのか? 神様は不公平だ。」と呪い、嘆いていました。幸せそうな友達などの家庭を見ては、羨んでいた自分がいました。しっかりとした両親の間で、愛されて育ちたいという思いが強く、願望としてありました。小さい頃は両親の事で友達に馬鹿にされる事もありました。入学式に卒業式、授業参観はいつも伯母が来てくれるのですが、幼い私は、周りと比べてしまい、寂しい気持ちでした。
伯母は、母親代わりに色々とやってくれて愛情を注いでくれました。しかし、両親からの愛情を求めていたので、愛に飢え渇いていました。一人っ子で育ちましたが、死んだ姉が生きていれば、すべてを共有出来て、私の生活も心も変わっていたのではないかと思った時もありました。兄弟がほしいと感じたこともありました。私の心の中は満たされず、虚しさがあり、いつも“孤独”でした。

心からの願い
そんな家庭環境に置かれた私は、神様と呼ばれるもの、場所、すべてに敏感で、近くでも遠く離れていても「神様。どうか、父が家に帰って来て、一緒に暮らしてくれますように。母の病気が治りますように。両親が仲良く、親子三人が一緒に暮らせるようにして下さい。」と心からいつも求めていました。

イエス・キリストとの出会い
高校を卒業後、父の借金に追われる事となり、一般事務の仕事に就き、伯母とも別れ、自立しました。
しかし、二十二歳の時には、世の楽しみにより、二百万〜三百万円程の借金が私にも出来ていました。残ったのは借金で、心の虚しさは拡がりました。(借金は数年間で完済できました。)心の奥底にある満たされない思いによって、押しつぶされそうでした。死にたい、楽になりたいという思いで、ある時近くにある教会堂に行き、ひとりで
「神様 助けてください」
とすがる思いでお祈りをしました。
その時、とても気持ちがスーッとして、楽になりました。
それから半年後、勤めていた職場にクリスチャンの女性が新入社員として入社されました。その方からイエス・キリストの十字架による救いを聞き、本物の神様を知りました。
それからしばらくして、ある朝、目覚めた時に突然イエスさまの十字架がわかりました。父なる真の神様はひとり息子のイエスさまを十字架に架けて死に渡されるほどまでに、私を愛して下さっている。私は命がけで愛されている。神様の大きな愛が霊の内にわかり、感動しました。福音を聞いて、半年後、イエス・キリストを信じる受け入れのお祈りをしました。私の胸のところにあったぽっかりとした空洞は、そのお祈りで、一瞬のうちに埋まり、“孤独”から解放されました。

自殺を止められる
イエスさまを信じて間もない頃、対人関係がうまくいかず、生きていくのがとても嫌になり、もうどうでもよくなった時がありました。不安で眠れなくなり、市販の睡眠薬を一箱飲んで、カミソリで手首を切って死ぬ事にしました。本気で手首を切ろうとした瞬間、私が死んだ後、悲しむ人の幻が見えて、死ぬ事が出来なくなりました。その後、私の罪と自殺行為に対して深い悔い改めをしました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ人への手紙2章20節

神様への献身
クリスチャンになって、一年程して、神様の為に生きたいという気持ちになりました。献身の祈りを捧げ、海外宣教の重荷が与えられ、宣教師になりたいという強い思いで神学生になりました。
短期の海外宣教でアメリカに行く時がありました。チャーチオンザウェイのプレイヤーチャペルで、これからの導きを祈り求めていたところ、二つの事を神様に語られました。
同じ群れの長崎教会に転会する事と結婚相手でした。相手は教会の兄弟で、あまり仲が良くない男性でした。結婚相手の対象として考えた事は、ありませんでした。意外な語り掛けに、心に秘めて帰国しました。

結婚の成就
いつかは結婚したいと思っていましたが、ノンクリスチャンの時は、複雑な家庭環境の為、諦めなければならないと自分に言い聞かせていました。病の母を持つ私と結婚してくれる相手がいるのか不安でした。
クリスチャンになってから、御言葉が与えられました。

イザヤ書62章の全体で特に4節

「あなたはもう、「見捨てられている。」とは言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。」
と慰めと励ましを受けました。
また、教会の牧師夫人の助言も頂いて、結婚のための条件を70項目あげて、お祈りするようになりました。
数年後、すべての項目がかなえられて、結婚相手の一つの確認となり、結婚に至りました。相手は、アメリカで示された男性です。ハレルヤ。

母との同居
結婚して、三年が過ぎた頃、母と一緒に暮らしてほしいとの連絡が祖母よりありました。離婚をせず、籍を入れたままの両親でしたが、別居生活30年余りで、父と母は一緒に暮らせないと言うのでした。それで一人娘の私が強制的に引き取ることになりました。牧師である主人と当時二歳の娘と三人で、釧路で暮らし始めて一年が過ぎた頃でした。
迎えに行く旅費もない時でしたが、すぐに献金の助けを頂きました。感謝致します。熊本に住む母を迎えに行く出発の日、釧路の家を出る時に、大きな虹が架かっていました。祝福の約束の虹に、主人と感謝しました。
私が六年生の時に母と離れたので、二十年ぶりの同居生活が始まりました。母は釧路に来る数年前にイエス・キリストを信じ、告白をしていました。我が家に来てからは毎週教会の礼拝にあずかっています。

憎しみからの解放
癒され続けている母ですが、病気の母との生活は慣れず、深刻なものでした。何よりも私の内側にある問題が浮上しました。母から受けた虐待による“憎しみ”でした。辛い醜い時を過ごしました。
母は病気のせいもあり、自分がした事を憶えていませんでした。私は鮮明に憶えていて、憤りを覚え、憎しみにかられて、心が痛み、抑えきれず家族にあたり暴れてしまうのでした。何度も何度も母と喧嘩(けんか)をするのでした。落ち着いては悔い改め、謝りました。
しかし、同じ事の繰り返しとなり、幼い頃受けた虐待を赦したいと思う事が出来ないので、母に対する憎しみは、消えませんでした。
一年程してからでしょうか。私に喘息のような症状が許されました。とても苦しくて、辛くて、たまりません。主人にお祈りしてもらったところ、「ばあちゃん(母)を赦してないからだろ」と一言。神様に正直にお祈りしました。
「母から受けた虐待を赦したいと思う事が出来ません。憎しみを持ち続けていることを赦して下さい。そして私の心が、母を赦したいと思えるようにして下さい。」
神様から「わたしがあなたを赦したように、あなたも赦しなさい。」
と語られました。
その頃の教会の中での母が暗い顔をしている姿が思い出されてきました。私のせいで暗い顔になっていると思い、深い悔い改めの祈りへと導かれました。それ以来、母に対する憎しみで苦しむことはなく、私は縛りから解放されました。ハレルヤ。感謝致します。

父との同居
父との同居は、まだ考えていませんでした。父は糖尿病を患っていて、私が知らない間に合併症が進んでいました。心筋梗塞二回、脳梗塞、網膜症になり、車椅子の状態になりました。父にはまだ借金があり、親戚にもだいぶ迷惑をかけていました。高額な入院費、父を迎えに行く旅費もなく、私たち夫婦は困り果てました。突然降って来た高額な医療費に私たち夫婦は泣き叫び、主にすがり祈りました。神様の助けと兄弟姉妹のお祈りと御献金を頂いて、父との生活が実現しました。本当に感謝致します。
父と母は、涙の再会でした。住み慣れた土地を離れ、釧路で暮らすというのは父にとって、とても辛いようでした。父は釧路に来てから天に召されるまでの四年半、いつも熊本に帰りたがっては、私たち家族を困らせていました。

父の介護
自宅療養となった父は毎週、教会の礼拝に出席しました。父も随分前にイエス・キリストを信じ、告白していました。
糖尿病が初期の頃、入院先で私が福音を伝え、癒しの祈りと賛美のテープを通して、神様に触れられ、心を開いていました。
しかし、釧路に来てからの父は熊本に帰りたくて、頑(かたく)なでしたが、最後のほうでは、進んで教会の礼拝の為に、着替えて待っていました。主人は、父の入浴介助、世話等、教会に行く時や病院に行く時などの外出には、父を背負い、良くしてくれていました。主人の事をとても頼りにしていた父は、「清、清」と主人の名前を寝床からいつも呼んでいました。
父と母は同じ部屋で、母が父の食事の補助、着替えなどをし、家族全員が父の面倒を看ました。父の病気を通して、神様が父を私たちのところに、帰してくださいました。
父は意識のある時に「ありがとう。」と言って、その後天に帰りました。天に召された時には、私の内にあった父に対する憎しみ、赦せない心は消え去っていて、まだまだこの地上で一緒に暮らしたいと切望し祈りました。

祈りの答え
神様は、私がかつて独身の時に祈った祈りを憶えてくださっていました。バラバラだった父と母、私を一つとしてくださいました。結婚してから共に両親と住めたことは、宝となりました。
人間的には不可能な事も、主は御手を動かして、栄光を現して下さいました。私を孤独と憎しみから解放するだけでなく、両親にも夫婦の回復、私に親子関係の回復を、すべて与えて祝福してくださいました。 神様に心から感謝をお捧げ致します。
森 シオン        (月刊「雲の間にある虹」2010年3月号に掲載より転載)

オウムから救われ三億円の損害から勝利

借金問題でお悩みの方

私はあなたのわざを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42章5節)

家業の経営の行き詰まりから父親が3億円の損害。そして24歳のときに兄の影響でオウム真理教に入信。しかし、真の救い主なるイエスキリストを知り、主を求め、祈り求めたときに、生ける神が人生に働き始めた。現在北海道の地でコンビニエンスストアを経営しておられる菊池弘泰さんに、オウムからの回心や、40日40夜の断食、さらに現在の経済の祝福について聞いてみた。

主が与えられた試練

私の実家は着物屋を営んでおり、そこそこの個人商店で、生活は裕福な方で、私自身子供の頃から、あまり不自由を感じないで育ちました。

しかし時代の流れでしょうか。世の中は着物から洋服を求めるようになり、着物を売り歩くのが非常に厳しくなってきました。

黙っていても売れる時代は終わり、いつしか私の知らないところで、会社はかなりの負債を抱え、もうギリギリのところまで来ていました。

父は会社の赤字を気にして、とうとう、ゴムの先物取引に手を出してしまいました。

最初は良かったのですが、それも束の間、どんどん損をしていき、賭けている金額が大きいので、下がるときには何千万も下がりました。

一日でそれだけの金額が動くので、それを取り返そうとまた賭けて損をして、やめると言いながらも、やめられない状況が何ヶ月も続きました。

三億円の損害

ついに財産のほとんどがなくなり、その損害といえば、私にとって天文学的な数字になってしまいました。

コツコツと売ってくる商品の額も気休めで、塵のように感じられました。

今の私たち家族の力では取り返せる金額ではなくなってしまいましたが、父はそれでも株の取引をやめなかったのです。

私にはどうすることもできませんでした。しかし黙っていると気がおかしくなりそうで、夜も眠れませんでした。

この頃から私は、本当に心から主を求め、イエス様に祈り始めたのです。

石狩川のほとりでの祈り

私は毎晩、寝静まった妻を起こさぬように、そっと床を抜け出し、夜中の2時ごろに近くの石狩川へ行き、真っ暗の中、主に祈り叫んでいました。

時間はあっという間に過ぎ去り、朝7時ごろ家に戻るのです。1時間ほど仮眠を取り、起きるのですが、また不安が襲ってくるのです。そして何もしないで黙って家にいることができないので、また祈りに行くのです。

完全に恐怖の奴隷となっていました。毎日毎日、雨が降っても欠かさず祈りに出かけました。

「主よ。あなたはおられるのですか。全能者であられるのなら、なぜ今すぐこの問題を解決してくださらないのですか。どうして毎日毎日あなたは黙っておられるのですか。あなたは本当におられるのですか。」

石狩川のほとりで主に叫びました。

主の答え

ある日の朝、いつものように祈っていました。

そのとき、突然私の霊的な何かが開かれたのです。

主がここにおられるということがはっきりわかったのです。

その暖かさに触れているかのように、目には見えませんが、生きた方が確かにおられるのがわかりました。

私はびっくりして、地にひれ伏し、その臨在に頭を持ち上げることができませんでした。目から涙が溢れ出し、私は大泣きしてしまいました。

主はそのとき、はっきりと言われ、その声を私は聞きました。

「私はあなたと共にいる。あなたは私の栄光を見る。」

そのとき、不思議に私はすべてを理解することができました。

そして、ヨブが主に語った、「私はあなたのわざを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42章5節)」この御言葉が脳裏に浮かんできました。

すべてが主の摂理、主のご計画であったことを悟りました。

新しい仕事の導き

その後、不思議なことに、私達とは畑違いの仕事が次々と舞い込んできました。

その中に、コンビニエンスストアの経営の話があり、妻の小遣い稼ぎにでもと考え、始めることになりました。

場所は、こんな所かと思うような活気のない所でしたが、その店は、どんどん利益を上げ、本部の人達ですら、口を揃えて、「宝くじを引いたね」と、自慢するほどの店になりました。

あなたは私の栄光を見、さらに私を知る、と主が語られたとおりでした。

オウム真理教からの解放

兄がコンビニエンスストアのオーナーになりましたが、あまりの忙しさに、兄は教団(オウム真理教)をやめました。兄と私は双子の兄弟で、幼い頃から超能力に興味を抱いていました。

社会人になってから、オウム真理教に入信し、旭川から札幌の道場まで、毎日修業のために通っていました。

オウムでの修行は深夜に及ぶもので、3分間息を止めることを課せられました。息を止め、吸うを繰り返し、4時間も経つとくたくたに疲れます。

最後の2時間はトランス状態に入り、その状況の中で瞑想するよう指導され、イメージを与えられます。

その修行を積んでいる内に、私は心のバランスを崩し、精神に異常をきたすようになってしまいました。

自殺の思いがあり、幻聴幻覚がおとずれ、得体の知れない恐怖が私を覆っていました。

私が24歳のとき、神は私の元に牧師を遣わしてくださいました。私を心配した両親がある教会の牧師に連絡をしたのです。

牧師はさかんに、イエスキリストの十字架について話していました。

私は、牧師の勧めで聖書を読むことにしました。

預言書は何のことかさっぱり分からず、旧約を読んでいる内は何も感じませんでした。

律法を守り、良いことをすれば神のようになれると思っていました。

旧約聖書は仏教と同じと思っていたのです。

しかし、新約聖書に入り、イエスキリストが出てくると、大きなショックを受けました。

今までの自分には救いがなかったことに気が付いたのです。

仏教にはどこを探しても救いはありません。

イエスキリストの贖い、身代わりの十字架に気が付いたときに、私は救いを受け入れました。

そうして、牧師から按手を受け、イエスキリストの御名によって悪しき霊を追い出してもらったら、何と、1年は治らないと言われた精神の病が、わずか3日で完治したのです。

イエスキリストにしか救いがないという聖書の真理は、私が改宗する決定的な要因となったのです。

オウム真理教では、皆、良いことをすればレベルが上がると考えており、最終的には、グルである麻原に服従すると、グルが引き上げてくれると信じています。

しかし、何をもって救うのかといった場合、イエスキリストの救いによるより、他に救いはないのです。

そのことの確信が与えられたときにオウムから改宗いたしました。

私はプルシャというオウムのお守りを焼いて粉々にし、イエスキリストの御名によって縛りました。

四十日四十夜の断食

教団を離れ、新しい仕事により、経済的にもどんどん祝福されました。

1年も経たない内に2店舗目がスタートしました。(現在そこでは私達夫婦がオーナーとして経営しています)

さらにもう1店舗あればいいなと思い、本部の人に相談しました。

答えは、「とんでもない。オープンしてから1年足らずの店、体制も整っていないのに、誰がやるのですか」と、頭からはねのけられました。

私は、四十日四十夜、断食して祈りました。四十日四十夜断食しても、目立って変わることは何も起こりませんでした。

しかし、主は私の願いを聞いてくださいました。

何と本部の別のルートの担当者から、それも向こうからお願いしてきたのです。

それだけではありません。こういう店舗を私に与えてくださいと祈ったことが、後々そのとおりになっていくではありませんか。

誰を店長にするか、私も気にしていて、この人こそその人だと思われた方は、知人も含めてすべて主のふるいにかけられ、消えていきました。

誰もする人がいないと思っていた矢先、札幌のほうから、それも経験豊富な若い社員を、本部の方が引っこ抜いてきたではありませんか。こうして、3店舗目を出すことになりました。

その後、自分では何もしていないのに、事がどんどん進んで行き、怖いぐらいでした。

絶体絶命の窮地に陥っている人がいるならどうぞ喜んでください。そのときこそチャンスだからです。

私はクリスチャンでしたが、父の株の問題がなければ、祈りは形だけだっただろうと思います。

しかし、他の人は助けてくれない。主だけに頼るしかない絶体絶命のときに、真剣に祈ることができたのです。

主にだけ頼るとき、主は近づいてくださいます。

あくまで頼み続けるなら、主は必ず問題を解決してくださり、祝福をしてくださいます。

今振り返ってみて、株により資産はゼロになりましたが、今の仕事が与えられてそれ以上に祝福されていることを思い、主のなさることは不思議だと感じています。

頼み続けるなら、期待するものが主の方法によって与えられます。そして完璧なものが与えられるのです。

石狩川のほとりで主に叫んだ、主を求めに行った、そのような状況が与えられたことは、本当に感謝すべきことだと思っています。

菊池弘泰さん

「み声新聞1999年2月21日号(第1号)」 転載についてみ声新聞社の承諾済み(無断転載不可)


感謝する中で、私の中の恐れが完全になくなっているのに気がつきました。

家庭内不和でお悩みの方

主のみ名を讃美します。ここに証を書かせて頂くことが出来き、感謝します。

私は、18 才の時、学校から紹介された教会で洗礼に授かりましたが、すぐ教会を離れ、好き勝手に罪まみれで生きていました。アメリカに来て主人と共にただ食べる為だけに働き、言いたい放題、やりたい放題の家族でした。そんな中、ある事をきっかけに不眠症になり、これからの将来の不安、強迫観念、困難等で眠れなくなりました。40日目、心の奥で、み言葉を感じました。マタイの福音書11:28 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所へ来なさい。私があなたを休ませて上げよう。」そのみ言葉で、すっかり元気になり、友達の行っていた Calvary Chapel Costa Mesa に導かれました。40年目のことです。

Pastor Chuch の毎週のメッセージは、深く、簡潔に語られます。この教会 の中心に聖霊様がおられ、み言葉によって、又いろんな人々を通して今、現在も働いて 下さることを体験しました。神様の恵みです。恵みは私たちのまわりに満ち満ちています。

ハレルヤ !でも、喜んでいたのは、2、3年それからは、次々と起こる困難にすっかり打ちのめされていました。ある人から「あなたは、思い煩いの毒に犯されている。Christian の喜びがない。これからどんどん広がって行く。それは、罪です」と言われ、なんで私ばかりですか?

と主に文句を言っていました。その後も主人の病気、息子の離婚で、特にこの4年間は、

思い煩いの毒はどんどん広がっていました。

去年の11 月23日、秋元先生の聖会に導かれて、祈っていただく事ができました。

主人の健康、息子の離婚により起こる孫の問題、それを心配し続け、

もっと悪いことが起こるのではないかとの不安。先生は、「感謝しなさい。感謝しなさい。

感謝し尽くしなさい。」と言って下さり、それからは、毎日感謝し続けていました。

1ヶ月位して、私の中の恐れが完全になくなっているのに気がつきました。怖くないのです。

朝起きても、ぜんぜん怖くなく、主人と一緒に毎朝歩く散歩が楽しく、み言葉に

基づいたCalvary chapel Praise Song を、楽しく歌うようになりました。

不思議です。感謝です。又、私の周りの状況が変わってきたのが解ります。長男と次男が、すごく穏やかに私に話すようになりました。家族の救霊が私と主人の悲願であり、信仰が家族に受け継がれる事を毎日祈っていますが、神様の事を話す機会が増えています。

感謝です。牧師を通して語られる神様のみ心は、ネヘミヤの様に「私の神の恵みの御手が私の上にもあったので。」と実感します。牧師のメッセージは、インターネットで毎週楽しみにしています。信仰のエッセンスを解りやすく、楽しく、語られており、わくわくしながら見ています。主が、喜んでいて下さっているのがわかります。喜びがありますから。

ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!

聖会で奉仕された牧師、聖会に連れて行って下さった A さん、ご主人、そして牧師に仕え、教会に仕え、病にある人に仕え、神様を第一として、本当に喜んでご奉仕されるすばらしいA さんのお母様に感謝し、その方々を通して働いて下さる神様は、なんとすばらしい神様でしょう。

私は、あなたに完全に降参しました。 ハレルヤ!

God Bless you richly all the time.

M.T.


出産をきっかけに -神様との出会い           教会で完全な神様の守り

離婚でお悩みの方

大晦日の夜に出産を無事終えて、次の日の早朝、授乳のために起きてまだ暗い外を見ると、病院の大きな庭は一面の雪で真っ白に覆われていました。昨日はあんなに晴れていたのに、夕べ気がつかないうちに雪が降ったのだなと思いながら、まるで別世界のような景色に見とれていました。その直後、洗面所へ行った帰りに、病院の廊下で思わぬ人に出会いました。

その人は同じ病院の妊婦教室で何度か一緒になった方でした。私より3日前に入院されて、すでに息子さんを出産されていました。とても誠実そうな方で、何度も私に話しかけてくださるのですが、私はなぜかその人と話がしたくなくて、いつも失礼な態度を取り避けていました。でもこのときは違いました。彼女と会ったのがうれしくて思わず駆け寄っていました。彼女は私の豹変振りに驚いて、でも顔には出さす、どうしたのかと聞いてくれました。

娘の父親とは出産の2日前に別れていました。子供が生まれたら結婚する予定だった相手が家を出て行ったからです。突然一人きりで出産することとなり、さすがに気が弱くなっていたのだと思います。私は自分の身の上を病院で会ったよくも知らない女性に話していました。すると彼女は私に言いました。「それは、私の主人が専門だから」

専門ってなんだろうと不思議に思っていますと、その日の午後、さっそくその方のご主人ともう一人の体の大きな男性が、彼女のところに来たついでに私のところにも挨拶に来てくださいました。話すと彼女のご主人はキリスト教会の牧師だということがわかりました。そしてご主人が「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死なれました。自分の罪を悔い改めて、この方を救い主として信じませんか?」と言われました。

私は何を言っているのかよくわかりませんでした。また極度の男性不信になっていて、人の言うことなど信用できないと思っていたのに、なぜかこの人の言っていることは真理に違いないと感じました。それでもクリスチャンになることは、とても大変なことに思えました。いろいろなものを捨てなければならないような気がしたのです。でもその時点の自分にとって財産といえるものは前日生まれた子供だけ、順調だった仕事も辞め、出産を反対されて家族からも見捨てられていた自分にイエス・キリストを信じて失うものは何もないと、思い切ってイエスさまを信じました。また牧師が導いてくださった祈りの中で、本当に自分は罪人だということは深くわかりましたので、悔い改めに躊躇はありませんでした。

7日たって病院を退院する日になり、私は子供を抱え、迎えの車を待っていました。しかし約束の時間になっても車は姿を現わしません。私はしかたがなく、病院の廊下を行ったり、来たりしていました。そのとき廊下の壁に小さな箱がかかっているのを見つけました。それは難病や障害を持って生まれた子供たちを支援するための募金箱でした。それを見ているうちになんだかその箱に1,000円を入れなくてはいけないような気がしてきたのです。

娘は黄疸(両親の血液不適合により発症)をともなって生まれたため、出産後すぐの3日間、小児科に入院していました。退院するときは子供にまだ保険資格がなくて全額支払いとなったため、そのときの私の全財産は5,000円だったのです。そのため私にとっての1,000円は大金であり、募金はなかなか決断のつかないことでした。しかし私は喜びにあふれていたので、最終的にはその募金箱に1,000円札を入れたのです。

このような境遇で喜びにあふれているのはおかしなことですが、本当に心から感謝の思いでいっぱいでした。出産前、私はつわりがひどかったため仕事を辞めざるをえず、当時学生だった相手も家を出て、一緒に大学の近くに引越しをしました。相手は学生で経済的には厳しく、またつわりのせいでほとんど満足に食事ができない状態でした。不安定な関係ですからお互いに思いやることもできず、お腹にいる子供には大変な思いをさせたと思います。子供が生まれてくる直前まで、精神的にも肉体的にも良くない状況が続いたので、その影響でもしかしたらどこかに障害をもって生まれてくるかもしれない、でも生まれてきたら絶対大切に育てようと決心していました。

しかし生まれてきた子供は信じられないくらい健康な、かなり離れた洗面所にまで大きな泣き声が聞こえてきて、同じ病室の産婦さんから「ほらあなたの赤ちゃんが呼んでいるわよ」と言われるくらい元気な赤ん坊だったのです。私はそれを見て、本当に奇跡だと思いました。なにか目に見えない力が働いてこの子供を守ってくださったとしか思えないと感じました。どなただかわからないけれど私の子供を守ってくださった方がおられる、そのことに感謝の思いでいっぱいだったので、私も自分ができることをしたいという思いになったのです。

神様と人々の愛に支えられて

結局3時間遅れた迎えの車に乗って、アパートに帰ると近所の方々がお祝いにかけつけてくれました。その中にイエスさまを教えてくださった牧師も来ておられました。そして帰り際に電気敷き毛布と現金の入った封筒をお祝いだと言って置いていかれました。封筒の中身を見てびっくりしてしまいました。なんとその中には140,000円が入っていたのです。私はあわてて牧師の奥さんである友人に電話をかけて、理由を尋ねました。すると彼女は「それは神さまがそうしなさいと言われたことだから、安心して使ってください」と答えてくれました。しかしそれでも私は信用できず、封筒のお金には手をつけることができませんでした。

出産して1ヵ月後、教会から迎えの車が来てくれました。ほとんど同時期に出産した牧師の奥さんと一緒に赤ん坊を抱いて、教会に初めて行くことになりました。そして教会で初めてメッセージというものを聞きました。

メッセージの中で、牧師は「Aさんが退院をする朝、神さまが給料の1か月分をAさんに献金するように言われた。しかし自分のところにも子供が生まれたばかりで、給料を全額献金してしまったら、自分たちの生活はどうなると思って心配になった。それで妻に相談して、妻から断ってもらおうと考えたら、妻は『神さまが言っていることに従ったほうがいい』と答えたので、しかたがなく給料の一部で電気敷き毛布を購入し、それと一緒に残りのお金を全額献金してきた。するとすぐに捧げた何倍もの祝福が与えられて自分たちの生活も守られた。神さまは生きて働いておられる」ということを語られました。

それを聞いて、私は本当に神が生きて働いておられることをはっきりと知りました。この神さまが私の子供をお腹の中で守り、それだけでなく私たちの生活さえも牧師の献金をとおして守もろうとされたことがわかりました。神さまが私の家族だけを祝福されて、牧師のご家族を守ってくださらなかったらきっと神を信じることはできなかったと思います。しかし神さまは、神さまに従って給料全額を捧げてくださった牧師とそのご家族を祝福し、ご自身の栄光を現わされました。

また私にもご自身に従うかと試されたのだと思いました。私が主の促しに従って1,000円を捧げたときに、その何倍もの祝福を与えてくださいました。また牧師が後にメッセージで語られましたが、神は「家族でパトモスに遣わす」「わたしはあなたにパトモス派遣のために、十分の一を先に捧げさせた」と言われて、最終的に牧師が私に捧げてくださった金額の十倍以上の祝福を牧師に与えられました。そして牧師とご家族は、その年の夏のパトモス派遣に家族全員で参加されました。

何年も経って牧師の奥さんと話をしているときに「あなたがたのおかげでクリスチャンになれました」とお礼を言うと、それはちがうと彼女は答えました。実は息子さんの本来の出産予定日は、1ヵ月後だったそうです。それが急に出産ということになったのは、彼が、私たちが救われるための道備えをしたからだということでした。バプテスマのヨハネの名をもった息子さんは、お腹の中から神に従っていました。また本当に急な出産だったため、奥さんの体は準備ができておらず、傷が残ってしまってそれから何年も辛い病院通いをすることになったのですが、彼女は一度も私を責めませんでした。

出産前に神さまは何度もあの人に声をかけるようにと、奥さんに言われたそうです。しかし私が避けていたので、私を怖いと思っていたそうでした。それでもめげずに声をかけ続けてくださっていたので、病院で再会したとき、私は迷わず彼女に近づくことができました。

試練を乗り越えて-神に従う祝福

娘の父親が彼女の父親であることは事実なので、本人が娘に会いたいと言ってきたら、会わすつもりでしたが、生まれてから一度も会いにきたことはありません。しかし天の父である神さまは、いつも娘のそばにいてくださいます。

体は人一倍丈夫に生まれてきたのですが、発達障害という病気をもっているらしいことが高校生になってからわかりました。まだ病院に行っていないので、正確なことはわからないのですが、小さい頃からのいくつかのできごとを検証してみますと、ADHDという病気の症例にぴったり当てはまります。

しかし娘には言いづらく、神さまにどうしたらよいのかと祈りました。すると祈った直後、娘のほうから突然、自分は病気なのかなと言ってきました。それで祈って見つけた精神科の医者で娘と同じ病気を持った方が書かれたHPを見るように言うことができました。娘もさっそく見て、自分と同じだと驚いていました。

私は娘が病気だとは考えてもおらず、少し変わった子供なのだと思っていました。自分の興味のあることはものすごい集中力で行ないますが、興味のないことは聞いても忘れてしまいます。実際、家の鍵を何度もかけ忘れたり、落としたりするので、このままでは自分の命まで落としてきてしまうよと何度か注意をしてきました。

小さい頃はうっかり者ですんでいましたが、だんだん大きくなってくると、実害が出てきます。私も余裕がなくなって、ひどい言葉で娘を叱責することが多くなりました。娘が傷ついていることがわかっても、自分も傷ついているときは思いやることができず、ますます彼女を追い詰めていきました。

しかし私も精神科の方が書かれたHPを見て、娘が病気の可能性があるということを理解できました。だから娘が悪いわけではないということがやっとわかって「あなたのせいではない」と娘に言うことができました。また私たちにはより頼むことができる神さまがおられます。後で聞いたら、娘も自分の状態に耐え切れなくなり、神さまになんとかしてくださいと祈っていたということでした。

娘は自分の状況を理解し、神さまにいやしを求めて祈りました。この病気の人は他の人の気持ちを把握することが難しく、他の人と一緒に同じ作業をすることに苦手意識をもっています。しかし今では、娘は教会でチームで奉仕をし、バイト先でもよき仲間に恵まれて、楽しく仕事をしています。またあれほど嫌がっていた勉強も、主の憐れみによって進学できたことで、自主的に勉強を行なうことができるようになりました。

娘は一度病院に行って、きちんと検査を受けると言っています。きっとかつては病気だったのが、今は神さまによっていやされていることが判明するのではないかと楽しみにしています。

私たち親子は教会で完全な神さまの守りを受けてここまでやってくることができました。確かに教会にはイエスさまのみ力と祝福が満ちあふれています。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」

(エペソ1・22-23)



教会に行き続ける中で解放されいやされました。

うつ病で苦しんでいる方, 自殺を考えている方

私は、20数年前に救われましたが、いろんな事があって長い間教会から離れていました。でも事は親のがんがきっかけで、6年前に教会につながることになりました。そのころの私は、うつの病状が重く薬がなくては、夜も眠る事が出来ませんでした。私たち姉妹は、幼い頃から親の愛情を受ける事がなく、毎日が争いの絶えない家庭で育ちました。

長い年月の間に虐待を受け自分でも気づかない内にうつ病になってしまいました。精神科に通院しましたがいやされず、頭の中では、どうすれば、楽に死ねるかと言う事ばかりを考えていました。一人で暮らしていたので、いらいらがつのり、死ぬ場所を求めて夜中中さ迷い歩きました。しかし結局は死ぬ場所が見つからずバス停のベンチで夜を明かしていました。生きているのが辛く、睡眠薬を飲まず致死量をためて沢山の薬を飲みましたが不思議に死ぬ事が出来ませんでした。左手の甲や腕を刺したり切りつけると言う異常な行動をとり続けて皆に心配をかけていました。でも、義姉と教会に行くようになりました。牧師ご夫妻はいつも私の話を聞いてくださり、祈ってくださいました。又姉が献身していた事もあり日曜礼拝や夜のカリスマ礼拝にも必ず出席をしていました。カリスマ礼拝においては、牧師夫人にいやしの祈りをしていただきましたが、神さまは預言を通して又賛美を通して、私はあなたをいやすと何度も何度もかたって下さいました。私は教会に行き続ける中で少しづつ孤独感やイライラがうすれていきました。気がつくと薬を飲まなくても眠れるようになっていました。今では自分を傷つける事もありません。神さまは、私をゆっくりとしかし確実に時間をかけていやしてくださいました。

うつで苦しんでいる方に、神さまを知って頂きたいとと思っています。神さまは必ずいやしてくださいます。

渡辺由美子


神のわざがこの人に現れるためです

不登校でお悩みの方

—息子の不登校3年半を通して神様が教えてくださったこと

「学校に行きたくない」—ここから私たち親子の長い戦いが始まりました。何とか学校へ行かせようと、時にはつかみ合いになることも…。ある日、自分を責める思いの中ですべてをさらけ出して祈ったとき、神様は約束のみ言葉を与えてくださいました。

「ただいま!」と中学2年生になった息子が学校から帰って来ました。カバンを玄関に放り出し、制服も脱ぎ捨てている息子に、「カバンは、部屋に。制服はハンガーにかけなさーい!」と、声を張り上げているわたしです。こんな日常ありふれた光景ですが、私にとっては大きな喜びでもあります。それは、息子が学校に行けず、苦しんだ3年半があったからです。

今日は、息子の不登校を通して神様が教えてくださった多くのことを、皆さんにお分かちさせていただきます。

「学校に行きたくない」

2003年4月、私たち家族は、多くの確認のもと、主の導きを確信し、生まれ育った北海道から東京へと引っ越してきました。上京と同時に、恵みによって、主人は牧師として立たされ、まさに主に仕え、教会に仕えるという熱い思いで、東京での生活はスタートしました。

子供たちも、下の息子は、近くのキリスト教幼稚園に、上の息子は、小学3年生でしたが、歩いてほんの2分程のところに小学校があり、そこに通うことになりました。私は、子供たちのいない間、神様のことに専念できると、わくわくしていました。(それまで、主人の母と同居していたので、単純に自分だけの時間があることがうれしかったのかもしれません。)

しかし、そんな希望に満ちた、そして悩みのない生活は、10日も続きませんでした。

学校が始まって1週間くらいたったある朝、息子を起こすと、「学校に行きたくない。」と言い出しました。「何かいやなことでもあるの?」 と聞いても、ただ、「行きたくない。」を繰り返すばかりです。新しい学校で緊張するとは言っていましたが、クラスメイトが朝迎えに来てくれ、前の日までは、楽しそうに学校に行っていたのです。

それでもその日は、転校したばかりで環境も変わり、たまには行きたくないときもあるだろうと、無理には行かせず、とにかく感謝していました。

しかし、翌日も同じでした。ここから、私たち親子の長い戦いが始まったのです。

しかし、この期間は、私にとってなくてはならない時となりました。それは、教会で語られている祈り聞き従うこと、感謝すること、教会につながることの、実施訓練となったからです。

第1段階—受け入れられない

この訓練の時を、私は、3段階に分けてみました。

まず第1段階は、受け入れられないという段階です。子供は学校に行くのが当たり前、と思っていた私は、学校に行かないことと学校に行かない息子とを受け入れることができませんでした。初めは、引きずってでも行かせるという思いで、息子に接していました。朝、息子が起きれば、とにかく学校に行かせようと必死でした。時には諭(さと)し説得し、時には罵倒(ばとう)し、時にはつかみ合いになることもありました。そんな中で、遅れてでも学校に行けると、ほっとする反面、気力も体力も尽きてしまい、ぐったりしてしまうという毎日でした。そんなにまでして息子を学校に行かせようとするのは息子の事を思ってではなく、自分にとってそのほうが都合がいいからなのではと思うと、自分がいやでたまらなくなりました。

また、学校に行けなくなった原因がわからなかったので(学校に行かなくても友達は遊びに来ていましたし、先生もよい方でした。)東京に出てきたことが、間違いだったのではないだろうか? 御心ではなかったのではないだろうか? そのために、子供を犠牲にしてしまったのではないかと、自分を責める思いになりました。

主人に相談すると、いつも「感謝しよう。とにかく感謝だ。」というばかりでした。確かにその頃、2倍の感謝、10倍の感謝と感謝の訓練も本格的になってきている時でした。

感謝だけで解決するとは思われないというのが、その時の私の正直な気持ちでしたが、疑いつつも日々感謝していきました。朝、息子とも感謝し祈り、聖書を読みました。

み言葉の約束

ある日、どうしても自分たちのせいで息子はこうなったという思いが強くなり、神様に自分の思いをさらけ出して祈りました。すると、はっきりと次のみ言葉が、与えられました。

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」               (ヨハネの福音書9章2、3節)

このみ言葉を通して、今許されている困難は、息子のせいでも私たち親のせいでもなく、神様の栄光が現れるためなんだということがはっきりとわかりました。だから、神様に従っているならばすべてが益となり、このことに神様の大きな計画があるんだと心から信じることができました。そして、東京に来るときに与えられていた多くの言葉を握り直し、確信に立ち返ることができました。

第2段階—自分の力で頑張る

このように、何とか息子の不登校を受け入れられるようになった私は、次の段階に入りました。それは、自分の力で「頑張る」段階でした。

毎日、感謝しつつ、「主よ、今日はどのようにして息子と過ごすべきでしょうか?」と祈りました。無理に学校に行かせないかわりに、私が何とかしてあげなくてはという思いが強くなっていました。学校に行っていないからといって学力が落ちないように勉強を見たり、外へ連れ出そうと公園や博物館に誘ったりと、結構忙しくしていました。何かしなければ、私自身の気がすまなかったからです。この、頑張る段階のピークが、5年生の秋に行われた移動教室でした。これは、2泊3日の泊りがけで軽井沢に行くというものでした。こんな大イベントに参加できれば、その後は自然に学校に行けるのではという期待でいっぱいでした。担任の先生ともいろいろと相談しましたし、本人も行きたい気持ちは強かったので、参加できるように細かく共に祈りました。

その結果、なんとこの行事に参加することができたのです。帰ってきたときの息子は、とてもうれしそうでした。学校に復帰する絶好のチャンスが来たと思っていました。

しかし、その期待は見事に裏切られました。その後、ぱったりと学校に行かなくなったのです。それまでは、自分の好きな図工とかクラブなど、数週間に1度くらいは行けていましたし、音楽鑑賞会や運動会など行事にも参加していたのですが、それさえも行かなくなりました。

第3段階—主にゆだねる

私自身、ここまでやって行けないのならもうお手上げという感じで、何もやる気が出なくなってしまいました。私には、何もできることはないとあきらめたときに、初めて、もう主にゆだねるしかないということがわかったのです。これが、3段階目です。

主にゆだね切る時の平安を知るまでに、なんと遠回りをしたことだろうと思いますが、それまでの一つ一つが訓練であり、通らなくてはならなかった道だと思っています。

さて、主にゆだねてからも息子はすぐに、学校に行けるようになったわけではありません。かえって学校にはほとんど行かなくなりました。しかし、そのような中、家族でイスラエルに行くということが導かれました。

はじめは、怖いから参加したくないと言っていた息子も、「安心して行きなさい」というみ言葉によって、押し出されました。この時は子供たちの参加も多く、同じ教会の友達もいて、久しぶりに息子が心から楽しんで人と接する姿を見ることができました。

神様は、神様の方法で、彼の心と霊を少しずつ解放し、学校へと近づけてくださっていました。学校には行きませんでしたが、本人は、中学校で変わりたいと思っているようでした。私たちは、御心の中学に行けるようにと祈っていました。小学校はもう行けなくても仕方がないと、ほとんどあきらめていました。

私自身も、教会と部門の仕事で忙しくなってきていました。以前なら、息子を置いて出かけていいのだろうかという思いが来ていましたが、主にゆだねてからは変わりました。私は私のやるべきことをして、息子のことは、主にお任せすることにしました。

そして、6年生も夏休みが過ぎ、前の年あんなに頑張った秋の移動教室の時期も過ぎ、息子は、教会と習っているギター教室そして親子で通っていた相談室以外は、ほとんど外に出ないという日々が続きました。

ゆだねているとはいえ、何もせずにボーっとしているように見える息子を目のあたりにすると、ついつい言わなくていいことを言っては、彼を傷つけてしまったり、怒らせてしまうこともしばしばありました。息子を受け入れたくても受け入れられず、息子も、私に反発して来ました。

しかし、神様は、動き出していました。そのころ、ニュースで毎日のように、子どもの自殺が事件として取り上げられていました。原因はさまざまでしたが、簡単に命を絶ってしまうことにショックを覚えました。同時に、もし息子もそうなったらどうしようという思いに駆られました。そう思ったときに、今まで、学校に行く、行かないで一喜一憂していた事を、心から悔い改めました。わたしは息子の存在自体がいとおしいんだ。とにかく、生きていてほしいんだ。それでいいじゃないか。とはっきり思いました。「神様はどんなときも共にいてあなたを愛してくださっているから、大丈夫だよ。」と息子にわかってもらいたいと思いました。その時に、与えられた曲が、『やすらぎの歌ゴスペル第7集』(編集部注:雲の間にある虹出版より発行)に載った「あなたはだいじょうぶ」です。

約束の言葉のとおりに

そしてここから、息子が実際にも動き始めたのです。ちょうどイスラエルチームが遣わされ、新たな年を迎えた頃でした。それまで学校には行っていなかったのですが、担任の先生が、最後の学芸会に何らかの形で参加させてあげたいと言ってくださり、音響をやらないかと誘ってくださいました。前日の夜学校に行き、担任の先生が指導してくださり、学芸会当日は、最後にみんなで舞台に立つ時にも、一緒に出て行くことができました。

このことをきっかけに、週に1日、2日と行けるようになって来ました。加えて3学期は、学校に行けないならと本人が希望して始めたギターのおかげで、最後のクラス発表での合奏に参加することができました。そして、3月、息子を含めた全員で卒業式を迎えることができました。

さらに、中学校に進んだ昨年は、1年間遅刻も、早退もなく、なんと皆勤賞をもらったのです。

もうひとつ、主は、恵みをあらわしてくださいました。それは、学校を長く休んでいる時、やはり、勉強がついていけなくなることが心配でした。そこで、勉強がついていけなくならないように、特に、復帰した時に、休んでいたとは思えないようにきちんとわかるようにしてくださいと祈っていました。その時に、「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(ルカの福音書2章40節)が示され、休んでいても、知恵に満ちると語られていました。この言葉のとおり、中学では、学年でもトップクラスの成績で進級することができました。

習っていたギターも、主は、教会でも用いてくださり、中高生の賛美チーム「グロウ・アップ」のメンバーとして、今年の白馬賛美大会に出場します。

どんな時も共にいてくださるイエス様

主は、この3年半を通して、私に多くの訓練を与えてくださいました。しかし、その中で、いままで以上に神様に愛されていることを知りました。それは、息子が学校に行けるようになったから言っているのではありません。これからも、困難や失敗は、私にも息子にも訪れるでしょう。しかし、息子のこのことを通して、イエス様はいつも共にいてくださり、私たちの弱さ、力のなさ、すべてをご存知の上で、決して見放さず、ありのままで受け入れてくださることを確信できました。このことは、大きな喜びであり希望です。

今回、私が証しする機会が与えられましたが、いずれは息子自身がこの時のことを振り返って、語り始めることを信じています。

そして、多くの同じような体験をしているお子さんと親御さんに、どんな時も共にいてくださるイエス様のことをお伝えできたらと心から思います。

すべてのご栄光を、主にお帰しします。

ジョイ宮下淳子