The Light of Eternal Agape 東京アンテオケ教会

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家族を一つにしたキリストの愛

親子関係でお悩みの方

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妻の父を引き取ってから四年半の介護の経験を通して
神様から受けた恵みや学びをお分かちしたいと思います。

バラバラだった家族が一つに

妻の家族はかつてバラバラでした。

妻は幼い頃からとても寂しい思いをして育ちました。父親は家に帰ってこないし、母親は知的障害者で心の病があり妻を虐待していました。伯母が親の代わりに妻を育てたのです。妻は家族がひとつになれるようにと願い、祈っていました。その祈りの答えは私との結婚後はじまりました。まず義母を引き取り同居がスタート。その数年後義父を引き取り同居がスタートしました。長年別居していた義父と義母の再会は涙の再会となり感動の瞬間でした。義父は糖尿病の合併症で心筋梗塞、脳梗塞、網膜症を患い、車椅子で妻の付き添いのもと熊本から私たちの住む釧路へやってきました。多額な医療費、手術費用もかかっており、迎えに行く旅費もないという大変な状況でしたが多くのお祈りと献金で支えられて無事引き取ることが出来ました。教会では祈ってくださる方々がいる、支えてくださる方がいるという恵みの大きさに本当に感謝しました。こうしてかつてバラバラだった妻の家族は我が家でひとつとされました。

義父との生活

義父はかつて信仰告白をし、心を開いていた時期があったようなのですが我が家では心を堅く閉ざし、私たちの好意も無駄のように感じられました。知り合いに送ってもらったお金で病院へ行って薬をもらい、空港から熊本へ帰る計画を立てていたこともありました。途中、お金が足りなくなったことを知り、断念。残ったお金はすべてパチンコへと消えていきました。再び知り合いに送ってもらったお金で今度はタクシーに乗って大量の蟹を買ってきてその知人に送ったり、自分で食べたり。とにかく北海道を脱出して熊本に帰りたかったようです。出来る限りの抵抗をしていたように思います。毎月かかる高額な医療費に頭を悩ませる中義父の行動はそんな状態だったのです。

義父との喧嘩、悔い改め

義父との生活で思い出すのは言い争いをした日のことです。私は男として義父の言動はゆるせませんでした。黙っていることが出来ずに一言、二言と批判し口論となりました。私は激しく義父を責め立て、怒鳴りました。私に軍配が上がった感じでこの口論は終わりました。律法的に言えば私のほうが正しかったのです。その後、家の2階にあがり祈り始めました。すると、かすかに「悔い改めなさい」と語られるのです。また祈ると「(義父に)謝りなさい」と語りかけを受けました。私はすぐに1階の義父の部屋へ行き、膝をついて謝りました。謝っても最初は私のことを馬鹿にしていましたが、それ以降、義父は私に対して心を開いてくれるようになりました。毎週、半分強制的に車に乗せ教会へ連れて行っていましたがそのうち日曜の朝は自分の意思で着替えて教会へ行くようになっていきました。

衰えが進む

義父の体は次第に衰えていき、夜間せん妄という病気も発症しました。夢で見たことを現実の事として認識し騒ぎはじめました。「おでんを買ってきてあるからもってこい」とか「熊本の牛が売れたからお前たちに家を買ってやる」とか本気で真顔で言いはじめました。夜間せん妄の症状で義母と共に交番へ行き警察の方を困らせたこともありました。夜騒ぎ出すことが多く、妻は睡眠不足に悩まされました。義父は、やがて寝て過ごすことが多くなり、寝たきりに近い状態になっていきました。私はトイレ、入浴の介助を主に担当し、教会に行く時などは義父をおんぶしたり、抱きかかえて連れて行きました。入浴のときは祈りながら義父に語るべきことを神様に聞き神様からの知恵をいただいて語りかけていきました。食事を作るのは妻、食事の介助は義母にお願いし、家族全員お世話をしてくれました。

ありがとう

ある時、義父は「ありがとう」とささやきました。私は耳を疑いました。感謝の言葉などまともに聞いたことがなかったし、期待もしていませんでした。でも確かに心の底から出てくるような

「ありがとう」

の言葉でした。その後、妻にも「ありがとう」と言ったのです。この時はもう妻のこともわからなくなったりする状態でしたが私たちはこの「ありがとう」という言葉が心に響きました。

病室に注がれる臨在、大きな愛

それから数週間後 父は食事をまったく食べなくなり意識が遠のいていきました。心配になり、祈りつつ、肩を叩いて食事を口にもっていきましたが口をモゴモゴしては意識を失うという状況でした。かかりつけの病院へ電話しても対応が悪く、他の受け取ってくれるという病院へ車を走らせました。妻と私は病室で祈り続けました。2日間ほとんど寝ないで付き添いました。せっかく神様がひとつに戻してくださった家族。また一緒に生活出来るように心から願いました。「また仲良く一緒に暮らそう!!元気になって!!」と妻は話しかけていました。2日目の夜 義父に手を置いて祈っていました。するとなんとも言えない温かい空気を感じました。神様の愛が病室に満ちているようでした。あたたかい大きな愛。心地がよく、包まれていくような神様の臨在。義父もとても満足した表情をしていました。私たちは不十分で今まで何もしてあげられなかった。この時も何もしてあげることが出来ない。でもこの神様の大きな愛はこの義父に注がれていて離れないのです。こんなに大きな愛で義父は愛されている。病室で感動を覚えていました。

義父の召天

意識混濁から三日目の朝を迎え義父の血液中の酸素の量が上がっていき体温も上がっていきました冷たかった体に体温が戻ってきていました。その日は一ヶ月前から決まっていた初めての知的障害者施設でのボランティアのゴスペルコンサートの日でした。キャンセルするつもりでしたが義父の調子が良い方向へ向かっていることもあり、医師の許可をいただいて片道1時間の施設へ出かけました。はじめてボランティアコンサートに伺ったのですがとても祝福され、喜びのあるコンサートでした。お一人お一人と握手をして彼らの作った品々を頂いて再び車を病院へ走らせました。ところが義父はそのコンサート終了あたりの時間帯に息を引き取っていました。義母と二人の娘たちと教会の姉妹の見守る中で義父は息を引き取りました。教会の姉妹のお話では「自分の意思で呼吸をやめたように見えた」ということでした。神様の導きでコンサートへ向かいましたが義父も意識混濁の状態ながら私たちをコンサートへ、賛美の働きの中へ送り出してくれたような気がしました。そこから私たちは押し出されるように老人施設ボランティアや路上、病院、町のイベントなどの賛美の働きが始まっていきました。

義父の介護を終えて

義父が天に帰って2年経つ今でも義父のことを思い出します。不十分な介護に悔やみそうになることもあります。「あーしてあげれば良かった」と思う事もありますがそのことも感謝しています。介護する私たちは不十分で

罪深く、

弱いものなので

いつになっても完全な形での介護は出来なかったと思います。その時はこれが精一杯だと思ってやっていても悔いが残ったりします。でも教会には神様の愛があり、御手があり、助けがありました。神様の大きな愛は私たちの不十分を補って余りがあったと思います。だからこう確信しています。

「義父は神様の愛の中でとても幸せだった」と。

また私たち家族も神の愛の中で幸せな時間を過ごさせていただきました。生ける神様に心から感謝いたします。

2010年1月30日 ダニエル森清

今、介護で身も心も疲れきっている人たちが大勢います。
そんな中、上に書かれているダニエル森清さんのご家族のように
素晴らしい家族の愛が流れている家庭もあります。
何が違うのでしょうか。
それは、この家庭にはイエス・キリストの十字架の愛が注がれていたこと。
それが全てです。
あなたにもあなたの家族にもイエス・キリストの十字架の愛が必要です。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

聖書 1コリント人への手紙 10章13節

God is Love.