The Light of Eternal Agape 東京アンテオケ教会

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二人の間に越せない大きな川が…夫婦の間に架かった祝福の虹

夫婦関係にお悩みの方

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私の実家は印刷会社で、父は格別躾に厳しく、食事といえば五分で食卓についていないと許されない、つまり余り自由のない生活でした。母の実家の長男が戦死 し、あとが絶えるというので、父のたっての頼みで、高卒後すぐ理容学校へと行くことになりました。その学校で一番反抗的な生徒が夫、次が私と、このような 出逢いから始まりました。

夫との出逢い、結婚

私の実家は印刷会社で、父は格別躾に厳しく、食事といえば五分で食卓についていないと許されない、つまり余り自由のない生活でした。母の実家の長男が戦死し、あとが絶えるというので、父のたっての頼みで、高卒後すぐ理容学校へと行くことになりました。その学校で一番反抗的な生徒が夫、次が私と、このような出逢いから始まりました。

卒業四年後再会し、強引なプロポーズで嫁に行くことになりました。結婚式前夜、父から「貧乏に負けて帰って来ても、家には入れない。覚悟して行け。理不尽であれば、子供十人いても帰って来い。新聞は必ず読め。世帯やつれはするな。」これが父との約束でした。

式当日、散会し、私は酒井家に帰りました。その後、父が車で追いかけて来て、義理の父に「娘を連れて帰ります。やっぱり嫁にはやれません」と。義父は、「嫁をもらったと思ってない。娘が増えたと思い、大事にするから安心して帰って下さい。」この言葉を背中で聞きながら、父の顔を見ると、涙を一杯ためていました。

後日、姉から聞いたのですが、その夜、父と母は、私のこれからの苦労を思い、泣き明かしたそうです。今は、その涙の訳も味も少しはわかるのですが、幼さ故にわかりませんでした。新しい生活が始まり、こんなに自由でいいのか、こんな世界があるのかと、幸せ一杯でした。

二人の間にできた越せない川

しかし、やがて、環境の違いから来る常識の違い、信じられない、理解できない事が次々と起こり、受け取ることが難しくなって来ました。義父も夫も家族を愛しているのですが、ギャンブル「命」で、家族は二の次、三の次の人でした。

やがて、二人の間に大きな川となり、越せない川となってしまいました。実家からの月三、四回の宅配便―着物、服、食べ物。また、私の休日には子供を連れての実家参りでした。そんな私を、夫は苦々しく見ていたのです。そんな中、夫に女の人が居ることがわかりました。家と家との戦い、冷戦、子供を巻き込むゲリラ戦となりました。

長女に始まった家族の救い

中でも、夫そっくりの長女との親子の戦いは、両刃の剣で、相手の一番の急所を突くという、言われる方も、言う方も、互いに傷付くという事になり、長女は大学在学中に、イエスさまに救いを求めました。そして、次女、私とイエスさまを信じ、救われていったのです。後に、次女が夫へと、神さまはそれぞれの役割を決めておられたのです。
娘から礼拝テープが送られて来ていましたが、初めは強制的だったのですが、水の渇きを求めるようにいつも何度も聞いていました。ある時、寝ながら聞いていると、テープから「寝ながら聞かないで下さい!」と言われ、なんで解るの!と座り直した事もありました。
私は、第二回アメリカ祈り込みチームに娘夫婦と同行させていただく事になり、その時はまだ祈る事も聖書を読む事も知らない私でした。それでも参加してよろしいでしょうかとリーダーの牧師にお聞きしました。皆さんの邪魔にならないように静かにしていて下さいとの事でした。オンザウェイ教会では、映画に出て来るような美しいご婦人と素晴らしい賛美にカルチャーショックを受け、お上りさんを地で行く私でした。説教はジャック・ヘイフォード師、勿論英語でチンプンカンプン……なのに何故か聞いていて涙が出て来るのです。リーダーの牧師に何を言っているのかとお聞きしました。「家族に働くサタンの断ち切りです。」その時、ああ私はこれを聞くために来たのだとはっきり解りました。その時に私に神の言葉の種が入ったのです。
それから具体的に夫の迫害が始まり、夫の前では絶対に礼拝テープを聞く事が許されませんでした。神さまの言葉を聞き、神のなぐさめを受けないと酸欠状態になり、私の家出が始まったのです。子供が大学生の時は東京、熊本に行けば熊本、その場所での礼拝であり、聖会、海外宣教への参加となり、神さまの整えに入っていたのですが、当の本人はお互い必要としている分、余計傷つけ合うという時が許されました。

夫の病と救い

そんな矢先、夫が四十八歳の若さで、食道静脈瘤破裂との知らせが入りました。ドクターからは、「生存率30%、他にもたくさん静脈瘤があります。覚悟して下さい。」でした。私は処置室の前で、悔い改めの祈りに入りました。神さま、もう一度、元の夫婦にさせて下さい。このまま天と地に分けないで下さいと祈りました。夜半、凄い突風が病室を吹きつけ、神さまが来て下さったと、はっきりわかったのです。それから少しずつ下血、出血が止まっていったのです。
体調を取り戻す中、次女が夫に手を置き、祈りの姿勢に入った時、それは夫が一番嫌がる事であったので、私が「やめなさい!」と言ったら、夫は、「手を置いてくれると楽になるから続けてくれ」と娘に頼んだのです。それからは、私の知らない所で、夫は、イエスさまを受け入れる祈りをし、日々の祈りの事も、娘を通して変えられていったのです。
そして夫は、鳴門の袴越という山の上に、大きな教会を建てる、山の上に光り輝く十字架を立て、多くの人のしるしとすると話すようになりました。また、ある夜、「悪霊がいる。希世子を呼んでくれ」と言われ、娘と共に、今まで関わりをもった悪霊を断ち切り、敵の本性を見せられ、娘と共にその一つひとつの悔い改めとなり、私は、緊張と学びの実践でした。
また、ある時は、夫が、「夜、神さまが色々と教えてくれる。わからない時は、この電話番号へ、急ぐ時はこの番号と教えてくれた」というのです。「ほかに質問は」と聞かれ、「ありません」と答えたと。

神のいやしのわざ

一カ月が過ぎ、大手術です。食道、胃、すい臓の摘出です。娘二人は、父親のいやしを求めて、韓国へ断食祈祷に旅立ちました。一回り小さくなった娘二人が、神のいやしの言葉を持ち帰り、手術しないでと頼まれたのですが、夫も私も、それ程の信仰をまだ持っていなかったのです。夫に静かに「手術をさせてくれ」と言われ、神を信じ、待ったのです。
手術の前夜、娘から家の偶像をすべて処分してくれと迫られました。私は「えっ」、頭の中で、これで確実に離婚! と思いました。しかし、この手術は大変な手術で、患者にとっても良くなるという手術ではないのです。でも、しないと確実に死ぬのです。やろう! 神棚は勿論、色々な人から頂いた置物、夫の大切にしている物も、偶像と思えるものはすべてを処分しました。この事は、今はっきり神さまの前には大きな事だったと思います。
手術は七、八時間、予定では七時ごろに終わる予定で始まりました。私は控え室で祈りの中、頭の中でずーっと賛美がエンドレスのように廻っていました。四時三〇分頃、「酒井さん」と呼ばれ、ああ血が足りないのだと思いましたが、ドクターは「終りましたよ! 肝臓もきれい、脾臓だけ取りました。早かったですねぇ。まだこの時間なのか?」とナースに聞かれていました。

神のいやしがはっきりと証明されたのです。
後で、夫は手術の間、ずーっと自分はツルに乗っていた。終わって、「酒井さん」と呼ばれた時に、手術室のベッドにすーっと入ったと話し、娘たちが、「それは韓国の硬貨のマークのツルよ」と話していました。やがて退院となり、子供達の行っている教会で証しをして帰って来たのです。その日、家の前には二重の大きな虹がかかりました。

再びの葛藤

静かな平和なひと時が過ぎ、体調を取り戻すとともに、元の罪に引き寄せられて行ったのです。「あれだけの神さまのミラクルを受けながら、何故?」と言うと、「あれは医者が治した」と言い、やり切れなく悲しくて、身の置き場所がなくて、離れようとすればする程、バネのように帰され、日本一意地の強い男と、夫曰く西日本一意地の強い女の熾烈な戦いだったのです。
そんな中、娘から「実家と縁を切って」と言われ、何処かで自分でもわかっていたので、完全に切ったのです。一方的ですが、聖書に、「それで、もはや二人ではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マルコの福音書10章7節)とあります。
神さまが私に言われる事は、「愛しなさい。愛しなさい。」それだけなのです。「神さま、私こそ愛されたいのです。」と叫び続けました。  最後に私の選んだ道は、夫との決別でした。

一つとなった家族

そんな時、神さまは、夫のガンという、命の期限のあるカードを私達に差し出されました。その時、今までの憎しみや戦いが小さく見え、跡形もなく、消えてしまっていました。命に代わる重みは、この世にはないのです。ドクターから告知するかどうか、そちらで決めて下さいとのこと。私は一緒に聞くことにしました。何故なら、生存期間は二年か三年だと言われました。まだ時間があるのです。知る権利も、選ぶ権利もあるのです。また、その人との生活を選ぶのも良しと決めてのことでした。結果は、夫が決別したのです。
それからの二人には言葉は必要なく、共にガンの戦友であり、戦士となったのです。周りの人は、それでも看病するのかと言う人もいましたが、家族一つとなり、ガンとの戦いに入ったのです。

神の助け

ガンも末期になり、抗ガン剤を二週間ごとに入れるためのチューブを大腿部から肝動脈に入れる手術です。夫の場合、大腿部から入れる方法しか残されていませんでした。血管造影写真を見る限り、余りにも難しい状態であったのですが、ドクターは、「五分五分。やってみるしかない」との決断です。手術室の前で祈っていると、白いハトが針金をくわえて上ったり下ったり誘導しているのです。その後、きれいな水が流れているので、神さまに「これは何ですか」と尋ねると血管を傷つけないようにしているのですと答えられました。通ったと思ったら、ドアが開き、「奥さん、いけましたよ!」と呼ばれました。

天への凱旋

ある朝、「お前の喜ぶことがある。奄美大島の女の人の殉教の話が放映された。あんな牧師になら、なりたい。海がきれいな所だ。今度連れて行ってやる!」と約束しました。 また、召される数時間前に、紙とペンを求められ、渡しましたが、日頃達筆の故に読めなくて、そのままになっていました。臨終の時、熊本から娘夫婦が駆けつけ、主の臨在の中で洗礼が授けられました。その後、子供達一人ひとりが夫に、「お父さんの子供で本当に良かった。ありがとう」と感謝の言葉を述べ、家族の見守る中、天に静かに凱旋して行きました。
子供達の申し出で、お父さんと三日一緒にいさせてとの願いで、三日、家族で夫と共にいました。その中で、一日一日と夫の顔が変わっていったのです。三日目には何か素晴らしいものを見た喜びと驚きの顔だったのです。後でナースに顔は変わるのかとお聞きしましたが、解らないとの答え。でも、何か素晴らしい天の御国を見たのだと思います。

「ごめん、ありがとう、陽子へ」
読むことの出来なかった絶筆が病院で同室であった人から「酒井さんは、ありがとうと書いてあるから、見て下さい。」と言われ、もう一度見たら読めたのです。そこに、「ごめん、ありがとう、陽子へ」だったのです。涙が止まりませんでした。夫から私へのメッセージです。もうわかり合えた夫婦なのにと心からそう思いました。あの大手術後七年間、命が延ばされた事は、奇跡だとドクターに言われました。この手術は、術後一年でほとんどが亡くなると。主なのです。
娘夫婦が熊本から東京へと異動となり、手伝いに行き、夫があのような牧師にならなりたいと言った牧師の姿がどんななのか知りたくて、娘と奄美へ飛びました。二人で探し探しやっとその家にたどり着き、ダビングテープを見せていただき、わかりました。その地にとけ込んで多くの人に愛されている牧師の姿がありました。テレビの映像は、なんと私達の泊まっている宿の前庭から始まり、夫が連れて行ってやると言った海がその下にあったのです。

神の最善

私達の戦いは決して負けたのではないのです。神さまからのプレゼントをたくさん頂きました。主にあって、幸せ者でした。人の目には、あまり格好の良くない夫婦だったかもしれませんが、精一杯生きたのです。五十六歳という若さで、くやしくも、せめてもう一度と思った事が多々あったと思います。その中で、今は最善であったのだと心からそう思います。本気で喧嘩し、ぶつかり合い、夫流の愛し方でしか愛せなかった人なのです。

実家と縁を切り、母が、あの子は生きているのかと姉に聞きに来たという、終わりの時、歩くことが難しくても車なら動けた時、お前を実家に連れて行ってやると、連れて行ってくれ、母との楽しいひと時を過ごしたのを、今も胸に焼き付けています。

神さまは、人を愛することを教えて下さいました。無条件の愛です。人は人を愛することによって、自分もいやされて行くのです。神を求め、信じ続けることによって低い所から仰ぎ見る感謝の信仰へと変えられていったのです。主が引き上げて下さいます。今、私は天にいる夫のとりなしにより、守られています。昨年ガリラヤで、幻で、天で神さまに仕えている夫の顔を見せて下さいました。神の一方的な恵みによってです。神さまのプレゼントです。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
詩篇 51篇17節

オリビア酒井

»月刊「雲の間にある虹」(発行:雲の間にある虹出版)2009年2月号より転載

しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(ヨハネの福音書16章20節)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5章5節)

God is Love.