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[ 聖 書 の 話 ](一般の方々に)

これは「み声新聞」の中にバイブルの話として、娘が書き下ろしたものですが、ご紹介します。

「人をゆるす」

 人生何年も生きてこられたなら、大概は、あまり思い出したくもない嫌な人物との出会いが、一度や二度以上あることでしょう。
 つい先日まで、私はある男性から受けた侮辱を、もうそれは10年以上も前のことなのですが、思い起こしては、腹を立て、苦々しい思いのとりこになっていました。
 神様は、そのことを感謝しなさい、と語られたので、感謝すると、イエス様がいかに私の罪をゆるしてくださっていたかが思い起こされ、心から、その人をゆるせるようにという祈りに導かれました。
 人をゆるす、ということは、私たちにとって何年もかけて、行なうわざであり一般に時間がかかります。それでも、嫌な場面を思い出す度に、感謝するとき、神様は、その人をゆるせるように助けてくださいます。
 私個人の祈りの中の感覚なので、うまく伝えることができないかも知れませんが、私に傷をつけた人は、私のうしろに立っているイエス様をも同時に傷つけたかのように、イエス様は、私の痛みを知ってくださいます。そして、ご自分が会われた十字架を示してくださり、その上で相手をゆるすよう、導いてくださいます。
 たとえもうその相手が、いなくなっても、また人間的にはもう終わってしまっていたとしても、ゆるすことは重要です。
 聖書には、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」と書かれています。
 私たちが地上で私たちに罪ある人をゆるすなら(憎しみを解くなら)、天においてもその人はゆるされることができるのです。ですから、私たちが人をゆるすということは、神の前ではとても大きなことなのです。
 しかし、ゆるそうとしても、どうしてもできないと苦しんでいる方がいらっしゃるかも知れません。そのことをありのままに感謝してみてください。ゆるせないという苦しみは、ゆるしたいという心の表われなのです。神はそのことを知っておられるので、あなたに慈しみをもって近づいてくださいます。
 イエス様の前に、重荷をおろしましょう。そしてすべてのことを感謝して、すべてを益に変えてくださるキリストのみわざに期待してゆきましょう。

(イスラエル北野)


「私の隠れ場」

 小学4年生の下の娘が、学校生活で、親の知らない試練を受けている様子です。家庭では、暖かく受け入れてやりたいと思い接していますが、最終的にはイエス様と娘との関係が状況を導いてくれることでしょう。
 イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださり、私たちに救いを与えてくださったことは、これまでに書いてきた通りです。
 イエスは、ご自分の命を捨てるほどまでに、私たちを愛してくださいました。こんな愛は、この世にあるものではありません。イエスの愛ゆえに、どれだけ私たちの心が慰めを受け、支えられていることでしょうか。
 聖書の詩篇に次のような一節があります。
 「いと高き方の隠れ場に住むものは、全能者の陰に宿る」
 いと高き方とは、神のことであり、神の元には、神を避け所とする者のために、隠れ場があるということを、この聖書の箇所は教えています。そして、そこに住まいを見出した者は、全能の神様の御手の陰にかくまわれるというのです。
 神の備えてくださった隠れ場が、神を主とする者にはあります。人々の非難を受けた時、誤解や悪意から孤独に陥る時、私は見捨てられることがありません。
 まっすぐに、神の元へ行き、私の隠れ場で翼を休めることができるからです。私が隠れ場に身を避けている間、全能者なる神は、私を強めてくださると同時に、全能の御手を働かせ、状況を変えていってくださいます。
 人は、どんなに大変な状況にあっても、愛をもって支えられてゆくなら、決定的に断ち折られることがありません。聖書にも、「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈芯を消すこともない。」と書かれています。イエス・キリストはこのようなお方なのです。
 あなたに、隠れ場は必要ではありませんか。あなたにもイエスの愛が必要です。イエスを心にお迎えして、あなたの隠れ場を見出してまいりましょう。

(イスラエル北野)


「新しい私」

 英語のことわざに、"I'm not I used to be." (私はもう以前の私ではありません!)というものがリます。私はこの一節がとても大好きでよく使います。
 私は、もはや今までの私じゃない、こうはっきりいえる理由は、イエス・キリストにあります。聖書には、こんな一節があります。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。」
 古い私は、罪人でした。人をねたんだり、裁いたり、神に反逆するものでした。けれども、神のあわれみによって、イエス・キリストの十字架刑における神のご計画とその愛を知ったとき、私は、イエス・キリストを私の個人的な救い主として受け入れました。思いつく限りの悔い改めをなしたとき、神は、そのすべての罪をゆるし、私を神の子として迎え入れて下さいました。
 この出来事は、確かに私にとって、新しく生まれるという体験そのものでした。
 神は、聖書を通して、多くの約束を与えて下さっていますが、その中心となるのが、イエス・キリストを信じることによって与えられる、救いの約束です。
 たとい、あなたがどのような罪の縄目にいようが、どんなに救われそうに思えなくても、イエス・キリストを自らの救い主として信じるところに、罪の赦しがあり、新しくされるという神の約束が実現されます。
 人は自分の力で、新しく生まれることができません。しかし、イエス・キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者なのです。
 キリストにあって、罪を持つ古い人は死にました。新しい人として今日からあなたは新しい人生を生きることができるのです。イエス・キリストの御名をほめ讃えて参りましょう。

(イスラエル北野)


「言葉は人を変える」

 人を育てるには、二つの方法があるという講演を聞いたことがあります。一つは、よくあるスパルタ方式です。
 もう一つの方法というのが、徹底してほめるというやり方です。女優の黒木瞳さんのマネージャーの女性は、徹底して黒木さんを大女優として扱い、そうであると語り、接してきたそうです。今や黒木瞳さんは、押しも押されぬ大女優です。マネージャーの方の指導は、確かな実を結ぶようになったのです。
 言葉は人を変えます。駄目ねえなどと、一言いうたびに、相手は駄目人間に一歩近づきます。ここのところをよく知っていないと、言葉によって、人を殺したり、生かしたり、その言葉の実を結んでしまいます。
 神様は私たちに、神の言葉を受け、それを告白していくことを御心としておられます。なぜなら、神の言葉は真実なものであり、私たちを真に生かし、時には新しい創造がなされるものであるからです。
 人の頭の中には、自分の考え、サタンの言葉、神の言葉と、大きく分けて三つの言葉があります。
 神の言葉は、真に人を生かします。しかし、サタンの言葉はもっともらしく聞こえるのですが、私たちから自信を奪い、否定的な結論が導かれるように働きます。
 私たちは、言葉を選んでいかなければなりません。ありのままの私たちは罪人ですから、サタンの言葉を中心に動いています。ですから、人や自分を殺すような言葉に囲まれています。人を育てるのに失敗しても当然なのです。
 イエス・キリストを信じて神の子となることによって、私たちに、神の言葉が聞こえてくるようになります。神様は私たちに、私たちが想像したこともないような、すばらしい言葉を与えてくださいます。
 この言葉を握り、語るようになるなら、あなたの人生は大きく変わっていきます。神の言葉は、希望、また愛だからです。
 「人はその口の実によって良いものに満ち足りる。」
 聖書の箴言には、こう書かれています。神の言葉を土台として選び、告白し、良きものに満たされていきましょう。

(イスラエル北野)


「高き所を取り除く」

 イスラエルには、唯一全能の神、主が彼らの神でした。イスラエルが北と南に分裂してからも、ことが起こると、民は、主により頼みました。
 国中から、異教の神々を追放し、アシェラやバアルの祭壇を取り去りました。こうして、主のみが唯一の助けであることを鮮明にし、主の助けを得ようと、へりくだりました。
 主もまた、指導者を送り、また手を伸ばして、彼らをその戦いの中から、救い出してくださいました。
 特に南王国ユダには、主を恐れる善王が何人か出て、宗教改革を行ないました。それはとてもすばらしいことでしたが、聖書には、「ただし、高き所は取り除かれなかった。」と書かれていて、完全なものではなかったことが、うががい知れます。
 高き所とは、異教の神々の祭壇や、自分勝手に作り出した礼拝所をいいます。これらのものが残っている限り、異郷の神々を慕うことがなくなることはありません。明らかに、彼らの神、主に対する心は不完全でした。
 1985年7月、私は大きな試練に直面しました。父が食道静脈瘤の破裂を起こし、死線をさまよったのです。この状況に何とか主に介入していただきたいと、祈った時に、聖書の宗教改革のところを読み、高き所を取り除くことが心に響いてきました。
 すでに父以外は、皆クリスチャンでしたが、家には神棚があり、四国八十八ヶ所の偶像があり、目には見えない縛りがありました。父に叱られるのを覚悟で、思い切って全部の偶像を処分しました。そして、旧約の民のように、神、主の介入を仰いだのです。
 すると、まもなく父の出血が止まり、一命を取り留めました。「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。」と神様は語ってくださいました。
 イエス・キリストを信じ、その信仰が確かであっても、事情があって、偶像や仏壇を捨てられない人がいます。いくらもう信仰していないからといっても、偶像には霊的な縛りがあります。捨てることができるよう、求めていくことが必要です。
 なぜなら、そのことを通して、段階の違う祝福と平安、神の栄光の現われを見ていくことができるからです。

(イスラエル北野)


「帰るべき故郷」

 私たちが産まれてきた日と同様、私たちは神が定めたときに、死を迎えます。人は、何かの事故によって、死ぬのではありません。病気であるから、死ぬのでもありません。どんな死に方をしようとも、結局は神が召されて、死んでゆくのだと私は思っています。
 ですから、焦ったり悔いたりする必要はありません。神のときが来るまで、人は生き、神の目から見てときが満ちた時に、命と分かれるようになるのです。
 イエス・キリストを救い主として信じる者は皆、この世の命とともに、永遠の命を持っています。イエスを心にお迎えするので、聖霊様が内住され、この方は、死ぬことがありません。私たちを天国へと導いて下さいます。
 多くの方の人生設計は死で終わりますが、そこはまだ本当の終わりではありません。死後を左右する永遠の命を、今の人生で受けておかなければなりません。天国を信じる人は多いですが、入り方を知らない人がほとんどです。それはただ、イエス・キリストを救い主として信じるだけでいいのです。
 イエスを信じるならば、天はあなたの故郷となります。たとえ死んだとしても帰るべき故郷があるのです。これは何と素晴しいことでしょうか。

(イスラエル北野)


「老いを担われる神」

 私には、私を産んでくれた両親の他に、育てをかって出て下さった一組の別の夫婦がいます。
 米寿を迎えるその夫婦の一番の関心は、死にあります。来たるべき自分の死に対して、現実的に意識し、何とか苦しまないで、あの世にいけないものだろうかと、本気で考えているのです。
 人生を山のぼりにたとえる人もいますが、人生、先へ進めば進むほど、より多くの困難があるように思います。
 夫婦間の確執、嫁姑の問題、老いに病にお金と、問題は次々に増えてゆくようです。年をとったから悟りの境地に至るとは、ある面ではその通りなのですが、その内容は決して楽しいものではありません。やはり幾つになっても、自分の気性や性質は変わらず、深い孤独を味わっている人も多いのではないでしょうか。
 この中にあって、具体的な助けとして、イエス・キリストを紹介したいと思います。イエス・キリストは、老いも若きも同じように助けて下さると聖書には書かれています。

 胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

 なぜ、神様が、担おうとか背負う、運ぼうと語っておられるのでしょうか。それは、私たちの直面する事態に私たちの力で当たるのではなく、神ご自身がその問題に対して全面的に助けて下さるということを言っているのです。
 死は恐いものです。問題はいよいよ手に負えません。しかし、イエス・キリストはそんなあなたを担って歩んでくださいます。決して見捨てず、離れないこの神の愛にあなたの人生を委ねてみませんか。

(イスラエル北野)


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